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■新・花井拳骨論 執筆:竹岡啓
★学生時代
 花井拳骨の生年は定かでないが、彼が1933年に大学を卒業したとあることから逆算できる。旧制中学の修業年限が5年であることを考慮し、拳骨が浪人も飛び級もしていないと仮定すれば、彼は1908年生まれということになる。
 拳骨の出た大学は京都にあることがわかっているだけで、その名前は明らかになっていないが、マサルの母がマサルをそこに入れたがっていることから、おそらく京大だろうと推測できる。拳骨は相撲部に所属しており、学生横綱になったこともあるが、1930年頃は学生相撲の全盛期で、その人気は大相撲をもしのぐほどだったというから、拳骨は大スターだったわけである。にもかかわらず、拳骨には友人がほとんどいなかった。拳骨の学生時代からの友人として『じゃりン子チエ』に登場するのは周だけである。学生時代の自分は不良だったと拳骨は回想しているが、現在の彼の性格からして、拳骨に近づくことを皆が敬遠していたというわけではないだろう。しかし、自分におもねるものに対して拳骨が冷淡であったことは想像に難くない。
 拳骨は1933年に京都帝国大学文学部を首席で卒業したが、この年は滝川事件の起きた年でもあった。自由主義者である京大法学部の滝川幸辰教授が危険思想の持ち主として休職に追い込まれ、それに抗議した教官と学生が学問の自由と大学の自治を求めて抵抗運動を行った事件である。最後まで戦いぬいた滝川教授や学生たちは、学問の自由と大学の自治を擁護する輝かしい伝統を築き上げたが、この事件が政府の側の勝利に終わったことによって大学はもはや自由な言論の場ではなくなった。当時、拳骨はすでに学生ではなく院生であり、滝川教授の罷免撤回を要求する運動に積極的に関与する立場にはいなかったかもしれない。また拳骨の李白研究が当局に睨まれたとは考えがたいが、滝川事件によって彼は大学そのものに幻滅を覚えたことであろう。
 やがて「横島教授フルチン事件」が起きる。自分の師である横島厚岸教授を拳骨が全裸にして大学のポプラの木につるしたという事件であり、大学の伝説として語り継がれることになる。拳骨がこの事件を起こした動機は不明であるが、横島教授が彼の論文を剽窃(ひょうせつ)したためと考えるのが妥当であろう。この事件によって拳骨は大学を飛び出したのであるが、彼が大学を去った真の理由は知る由もない。いかなる指摘も憶測の域を出ないが、師の裏切りは一つの契機となったに過ぎないのかもしれないと指摘しておく必要はある。滝川事件以後の京大の状態と重ねあわせて考えると興味深い。
 いずれにせよ、ほとんど喧嘩別れに近い状態で拳骨は大学と訣別した。時に1938年のことであった。国家総動員法の施行された年でもある。
★教師として
 大学を飛び出した拳骨は小学校の教員となり、西萩小学校に赴任する。拳骨の父親は素封家であったというから、拳骨が教師になったのは糊口をしのぐためではない。やはり心中に期するところがあったのであろう。
 しかし、自由な教育を行うことは許されない時代であった。そもそも拳骨が教師でありつづけられたかどうか疑わしい。戦線がとめどもなく拡大していくにつれて、かつてなら徴兵されなかったはずの人間まで徴兵されるようになり、太平洋戦争の末期には兵役上限年齢が45歳にまで引き上げられていたからである。拳骨の体格と体力なら甲種合格以外はありえなかったはずであるが、すでに青年とは呼べない歳になっていたことを考えれば、おそらく内地勤務だったのだろう。
 やがて敗戦が訪れた。そして1948年、テツが西萩小学校に入学してくる。誰もテツの担任にはなりたくなかったらしく、自分が6年ともテツを担任するという拳骨の提案は受け入れられた。拳骨とテツの付き合いはテツの卒業後も続いていくことになるが、拳骨は渉とは異なり、特定の生徒と親密になることを避けようとはしなかったわけである。しかし、だからといって拳骨が他の生徒をおろそかにしていたなどということはない。他の教師が出前をとっているのに拳骨だけは給食を食べるなど、生徒との間に距離を置かないようにしていたが、果して生徒たちは彼を慕っていた。拳骨の教え子たちが彼の家で同窓会を開いていることからも、そのことはうかがえる。小学校の同窓会というのはかなり珍しいだろう。
 ところで拳骨の思想というと、どうしても反体制的なものを想起してしまいがちだが、もし仮にそうだとしても、この時期の彼は教員としての仕事に専念していたようである。それというのも、1950年前後は赤狩り旋風の吹き荒れた時期であり、反体制的な言動の目立つ教師は公職追放の憂き目を見ていたはずだからである。あるいは、テツが西萩小学校にいた時期は、文筆活動で心を紛らわす必要がないほど拳骨が教師として充実していたということかもしれない。
 拳骨の思想は世俗的な成功を是とするようなものでは絶対になかったはずであるが、果たしてそれは教え子たちに伝わったのだろうか。残念ながらそうとはいえないようである。同窓会に集まってきた拳骨の教え子たちは、鼻持ちならない俗物になりはてていた。自分たちがいかに出世したかを彼らは口々に自慢し、まじめな警察官であるミツルを蔑みすらしたのである。
 この同窓会に対する不快感を拳骨は渉に打ち明けていたようだが、とうとう我慢しきれなくなり、テツを出席させることによって同窓会そのものに終止符を打った。面罵されて激怒したテツがかつての旧友たちを痛めつけるのを見て拳骨は快哉を叫んだ。それは、彼らに対する拳骨の訣別宣言に他ならなかった(7巻11、12話)。
★敗北の文学者・花井拳骨
 拳骨と百合根の仲はきわめて親密である。テツからもらった幻の銘酒を拳骨が百合根と一緒に飲んでいたことからも、二人が親密であることはうかがえる。一見したところ彼らの人生は対照的だったように見えるが、目指すものを得られなかった(もしくは大切なものを失った)という点では共通しているのではないだろうか。
 その卓越した李白研究によって毎朝出版文化賞を受賞し、文壇の偉才として世に認められた拳骨は、世俗的な眼で見れば紛れもなく成功者である。だが拳骨の夢は、自分が世俗的に成功することではなく、世俗的な成功によって自分に価値があると思い込まない人間を育てることであった。そして、この目標に挑んだ拳骨は見事に失敗したのである。教え子たちの堕落を拳骨の責任にしてしまうのはあまりにも酷というものであるが、彼らの現在の姿を眼にしたとき、拳骨は自分の敗北を痛感したに違いない。
 拳骨の日常がテツを中心にしていることは拳骨自身が認めるところであるが、それは彼が望んだ結果に他ならない。贈答品だという酒が花井家に大量にあることから察するに、拳骨との交際を希望する人間は決して少なくない。そして拳骨の方でも、自分を慕う人々に対して礼を欠かすことはない。だが阿諛(あゆ)されることを嫌う拳骨は、その高い能力ゆえに「文壇の孤児」とならざるをえなかった。自分が世間で思われているような強い人間ではないことを拳骨は知っている。それだけに、チエがいないと生きていけないテツがいとおしいのだろう。
 拳骨にとってテツがこの上ない支えであることを渉は理解している。拳骨がテツの面倒を見ているのだが、渉から見ればテツが拳骨の世話をしているということになる。渉はよくテツにたかられ、天丼をおごらされているが、テツが父親の支えになっていることに対する礼として渉はテツに御馳走しているのかもしれない。
 教育者としての自分を拳骨は決して高くは評価していないかもしれないが、彼の教え子は同窓会に出席していた連中ばかりではないだろう。逆根良夫のように、拳骨に会ったことはなくとも彼から大きな影響を受けたものもいる。彼もまた拳骨の「教え子」なのである。俗物の見本市のような同窓会がお開きになったあとで、拳骨とテツとミツルは3人だけのささやかな同窓会を開いたが、この同窓会に参加しようという人間は拳骨が考えているよりも多いはずだ。
 そして、拳骨は自分の夢を息子に託すことができた。数十年後、渉の教え子たちが花井家に集まり、拳骨とテツとミツルが開いたような同窓会を開く。そのとき、その場にいる人間が3人よりもはるかに多いことを拳骨は心底から望んでいるのだろう。心を通わすことのできる友――百合根――がおり、未来への希望――チエやヒラメ――がいるのだから、拳骨も寂寞(せきばく)を感じずに済むはずである。
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