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■流行と竹本家 執筆:菊地馨
★時代に逆行する竹本家
 今や一人に一台ともいわれるテレビや電話、ましてや新聞など、現在のチエの家には情報化社会の必需品は何一つない。
 テレビは存在した根拠はないが、電話はかつてあったようで、ミツルが「テッちゃんとこの電話は、とっくの昔に質で流れてるわい」と証言している。新聞についてもテツの「新聞見る奴嫌い」という理由で取っていない。(54巻11話、21巻4話)
 家財道具には本棚も見当らない。本は図書館の本まで売ったぐらいだから、家にあったとしても、スグに古本屋行きになってしまう。本で唯一現存するのは、チエの教科書と「字引」ぐらいである。(6巻11話、44巻4話)その字引もチエの学習用だと推定される。阪神・淡路大震災で、その存在価値が見直されたラジオですら、古道具屋へ200円で売り飛ばした。(62巻1話)
 私たちが物質社会に馴れ親しみすぎたため特にそう思うかも知れないが、これだけ情報化社会から隔絶された家庭は珍しい。チエは、そのことについて恥ずかしいとは思っていなかった。
 台風が襲来したときでも、辛うじてラジオで台風情報を聴いていたチエだったが、テツが、そのラジオを売り飛ばした直後、西萩地区が停電になるぐらいの大雨が降り、学校が休みになる大雨警報について知る術を失った。チエは、わざわざ雨の降りしきる中、近くの公衆電話まで行き、ヒラメの家へ電話して警報を確かめた。(37巻6話、62巻1話)
 この手続きで、情報化社会から隔絶された我が家をかえりみたチエは怒りが爆発した。「ちょっと部屋見てみい。今時テレビも電話も机の上に電気スタンド一つない家なんて」 大雨だから、公衆電話でも情報を得れたが大地震や大水害だと、チエの家は完全に陸の孤島になってしまう。
 災害のみならず、チエはほかの子供と比べて流行にもうとい。もちろん、流行を追うことが正しい生き方というのではないが、常識的に子供が知っている事柄について、知らないことがあるようだ。
 マサルがタカシと一緒に東京ディズニーランドへ行くという自慢話をチエとヒラメの前でしたとき、チエはディズニーランドについて、真顔で「なんやそれ」「知らん」と答えている。その横でヒラメは何もしゃべらなかったが、マサルがディズニーランドに行くと聞いた瞬間に驚き、その後、顔に汗を垂らしながら「知らん」と答えるチエの顔を見ていた。
 チエはディズニーランドの説明を必死にするマサルにも、なんの反応を示さなかった。この手の情報は、女の子なら少しは興味を示してもよさそうなものだが、チエは本当にディズニーランドを知らなかったようだ。(52巻11話)
 それからしばらくして、チエは「知ってて悔しがれへんかった」と答えているが、この前後の話から、これはマサルがディズニーランドに行った証拠写真を見せつけられたことに対する発言である。事前に行くことを知らされていたから写真で見せられても悔しくないという意味だ。(56巻1話)
 それどころか、説明の時にマサルは一言も言わなかったディズニーランドのことをチエは知っていた。「ディズニーランドてほんまはアメリカにあるんやろ」…どうやって、この情報を仕入れたのだろう。
★下町という情報社会
 チエがディズニーの本を見たとか、ましてやディズニーのテレビ番組を観たということは、まずありえない。常識的な情報だが、チエはどうやって本場のディズニーランドはアメリカにあるということを知ったのだろう。
 もし、読者自身がチエと同じ、情報…この場合、マスメディア情報に隔絶された環境で、どうやって、この情報を得れたであろうか。一度シミュレーションしてみていただきたい。自ずと、その情報源は絞られてくるだろう。
 電波とか活字とか電線からではなく、生身の人間から情報を得ているのである。
 チエは、自分の知らないことは、店にきた客に、いろいろな質問をして、知識にしている。たとえば、出産祝い、親の遺伝、ぎっくり腰…のことなど。おそらくディズニーランドのことも、こうして教えてもらったと思われる。(6巻3話、7巻1話、27巻1話)
 テレビやラジオ、電話がないからといって、決してチエの情報源が、他の子供と比べて少ないというわけではない。むしろ、客1人を1チャンネルとすると、普通の子供よりも得られる情報は、かなり多いことになる。しかし、ディズニーランドのような娯楽的なものではなく現実的というか庶民的なものばかりであるが…。
 流行といえば、もうひとつ1994年に大流行した「3D本」の情報は、ヒラメから教えてもらっている。マサルに3D本を見せつけられたチエは「な…なんやそれ」と戸惑っている。それを見たヒラメは、チエに3D本の見方を解説している。(59巻1話)
 これとは逆に、チエもヒラメも知らない言葉もあるのだ。その言葉は「コンピニ」
チエ「昨日、コンビニに勤めてるゆう人がウチとこに(コピーを)持ってきてん」
ヒラメ「な……なに、それ……」
チエ「なんか、よお、わからんけど」

 話の展開からコピーのことをさしているとも思えるが、コピーの話(店員が気が付くとコピー機が勝手に56枚も写真を刷っていて、その写真にチエが写っていたので、店員はコピー代金をチエの店へ請求しにきた話)は、この発言の前に登場するので関係はない。しかもチエは無銭コピーをした犯人をテツと疑っていた。だからチエの発言「なんか、よお、わからん」は「コンビニ」を指していることになる。
 ヒラメはテレビで刑事ドラマをよく観ているので(8巻2話、10巻4話)、「コンビニ」について知っていてもおかしくはない。ドラマに登場しなくても、コマーシャルで見ることがあるだろう。ところが、ヒラメは、それを見落としている可能性がある。なぜなら、自分に無関係な情報として自然に情報選択しているかもしれないからだ。
 このコピー事件以前に、西萩地区近辺にコンビニエンスストアがあった形跡がない(43巻5話に3ヵ所ほどコンビニらしき店構えの店が背景に登場したことがあるが、その後、登場していないので確認できない)
 コンビニ店員も「ひょうたん池のそばに出来たコンビニ」と言っているので、つい最近開店した店と思える。(52巻9話、10話)
 下町情緒を残す西萩地区。特にチエやヒラメが利用する店は、お好み焼屋、カルメラ屋、回転焼屋、書店、古本屋などであり、これらの店で売られているモノは、必ずしもコンビニ一軒で入手できる品物ではない。
★三面記事に振り回される
 チエの家はマスメディアから隔絶されているにも関わらず、チエやテツの日常生活に影を残した三面記事の事件は意外と多い。
 チエは、ヨシ江に惚れた人から手紙とチョコレートをもらったのだが、不審に思ったチエは菊にそのことで相談を持ちかけた。菊は「このチョコレートは食べんほうがよろしいな。テツにあげなはれ。いつか、ありましたやろ、毒入りチョコレート」と言い、チエは驚いた。しかし、実の息子に毒入りチョコを食べろという親にも驚かされる。
 大阪の人間が「毒入りチョコレート」というと、84年のグリコ森永事件を連想させるが、この話は81年夏ごろの話なので関連はない。とすると、77年2月14日、東京八重洲地下街に置かれた致死量の青酸ナトリウムが詰め込まれたチョコレート40箱が発見された事件と思われる。青酸チョコレートによる犠牲者はいなかったが、この事件の1ヵ月前には、東京品川の公衆電話ボックスに、青酸入りのコーラが置かれ、それを飲んだ高校生と無職の男性が死亡するという事件があった。その後、この事件を真似て農薬入りのジュースを電話ボックスに置くという模倣事件が全国で多発。チエが小学3年のころの事件である。しかし、この青酸コーラ事件は犯人が見つからず92年に時効になった。
 この事件は全国的にも衝撃を与えたニュースなので新聞をとっている菊から教えてもらうことができたのであるが、チエが知っている次の話は世間に広がる前に、ある企業によってもみ消された事件である。菊も知らないはずなのにチエは知っていたのだ。 チエは警察の団体客が来るというので、懲らしめるため、ミツルに「バクダンに味の素入れて、みんなの体ガタガタに」と話しかけている。どう考えても小学生のチエが考えつくような懲らしめ方ではない。(11巻5話)
 その発想の元となった事件は1972年12月、東京都内のスナックの店員が客のビールに「味の素」を混ぜて、客を失神させ、そのスキに店員が客から財布を奪い、荒稼ぎしたという事件である。
 この事件は1972年12月14日の『毎日新聞』東京版のみにしか掲載されなかった。その理由は「味の素」社が社名と同じ名前の自社製品のイメージダウンを恐れ、マスコミに圧力をかけたからである。同じ新聞の大阪本社版にも載らなかった。もしかすると全国の飲食業界の人なら誰でも知っている常識…あるいは常套手段ではないかと考えられる。
★伝染病との闘い
 毒入りチョコを食べさせられようとしたテツも、唯一ビビッている「事件」がある。しかも、テツが思いつく「思い切りこわいカタカナ」でもある。(34巻8話)
 それは「コレラ」。だいたい、コレラという病気は、菊が言っているように「コレラにかかろ思たら金かかりまっせ。本人が外国にでも行って輸入して来まへんとおいそれとかかれまっかいな」という病気であるが、関西でこのような騒動が発生しているのである。 1977年6月15日、和歌山県有田市で集団コレラが発生。患者9人が隔離され、そのうち1人が死亡した。その後、患者は増え続け、有田市周辺の市町村にも広がり99人が感染。世界保健機関が和歌山県を「コレラ汚染地区」に指定し、和歌山を抱える関西人はコレラにビビッて生活していた時期があった。
 ところで、テツが昼寝の時、小鉄がテツの顔に印鑑をおしまくったイタズラをした。それを知らずにテツは起きて、だるま屋へ行くが、だるま屋の女将さんに鏡を見せられ、その鏡で自分の顔を見たテツは「伝染病」と驚いた。
 コレラに感染したぐらいでは、顔面に赤い斑点が現われることはまずない。案外、テツは、この手の伝染病に感染したことがあるとも思える。
 テツの言う「伝染病」は麻疹、風疹のことではないだろうか。どちらも一般的に子供の頃に感染する場合が多い。特に麻疹は届け出伝染病に指定されている。
 風疹は「三日麻疹」とも言われるが、1回感染すると免疫ができるため、2度と発症することはない。
 テツは注射が嫌いである。(3巻5話、8巻9話)
「注射打たれるくらいやったら、死んだほうがましじゃ」というぐらい嫌いである。
 麻疹は予防接種によって防ぐことが可能で、しかもテツの実家は飲食業ということもあり、半ば強制的に麻疹の予防接種を受けたとも思われる。
 物語には登場しないが、テツが恐怖に戦く外国の病気コレラよりも、ほとんどの大阪人…いや日本国中をパニックに陥れたのが病原大腸菌「O-157」による感染症騒動だ。
 日本では1990年代から小規模で発生していた集団食中毒を引き起こす大腸菌として知られていたが、96年、チエが住む大阪市に隣接する堺市で、この菌による集団食中毒が発生。堺市だけで6500人以上の感染者を出した。原因は学校の給食に紛れ込んだO-157が排泄する毒素である。
 全国で死者も発生し、事態を重く見た厚生省は、単なる食中毒ではないことからO-157などによる腸管出血性大腸菌感染症を法定伝染病に指定した。
 加熱調理、食材の洗浄で、この菌を死滅させることができるのだが、「伝染病」イメージだけが先行し、大阪府を中心に焼肉屋、寿司屋などナマ物を取り扱う店に客が寄り付かなくなり「あの野菜は汚染されている」といった流言蜚語も飛びかった。
 当時の情勢から、きっと「チエちゃん」もいわれなきO-157パニックのあおりを受けて客足も一時的に遠退いたであろう。テツが「コレラ」を恐れているのに対し、チエは「O-157」禍のとばっちりを恐れていたかも知れない。また、隣接する堺市で小学生がO-157の犠牲になっていることからもチエはテツがコレラを恐れる以上に警戒していたに違いない。
★スポーツ一家
 竹本家は、映画についでスポーツとの関わりも多い。テツは一時期プロボクサーになっているし、ヨシ江は足が速かったことが災いして(?)テツと結婚してしまったし、チエもスポーツ万能である。(8巻11話、7巻5話)
 チエのマラソンの速さは天下一品で、学校内では男子であってもチエに勝つものはいない。体力測定のときはクラスメートに「ひょっとしたら全部チエが一番とちゃうか」「今日、チエ生徒会長に立候補したら当選するど」とまでいわれている。ただし体力測定で唯一チエがトップの座を譲ったのは懸垂だけである。
 また、おバァはんからは「チエとマラソンで相手になるのは、ザトペックくらいのもんでっせ」と評されている。チエはこれに対して「また、訳の分からんこと……」と返しているが、無理はない。ザトペックとは何者なのか、チエが知るはずはない。(46巻2話)
 ザトペックとは日本が戦後初めて参加した1952年のヘルシンキ五輪で大活躍したチェコの陸上選手である。男子陸上5000メートル、1万メートル、フルマラソンの3種目で金メダルを獲得するという実績を持ち「人間機関車」という威名も持っていた。もし、おバァはんがチエの評価を正確にザトペックと比べていたとすれば、チエはフルマラソンを2時間20分台で走りきるかも知れないのだ。ザトペックがこのとき作った記録は2時間23分03秒2。当時の男子マラソンで2時間30分を超えれば奇蹟と言われた時代だから、ものすごいタイムである。チエの健脚を将来に活かせれば、女子マラソンの世界記録は軽く抜いてしまうかも知れない。
 チエがスポーツ選手と比較されるのはスポーツだけではない。夏休みの宿題の取り組み方もスポーツ選手になぞらえたことがある。テツから「ファイティング原田みたいなやっちゃな」と例えられた。
 夏休みの宿題があったことを、2学期の始業式の日に改めて思い出したチエは、学校から帰ると、いきなり宿題完成に燃えた。その姿をボクシングのファイティング原田の猛ラッシュにだぶらせていたのだ。
 1962年10月10日、東京蔵前国技館で行なわれたフライ級のタイトルマッチで、世界チャンピオン、タイのポーン・キングピッチ選手を11ラウンド2分59秒でノックアウト。19歳の若さで世界チャンピオンの座を獲得した。1965年にはファンタム級のチャンピオンにもなった。そのボクシングスタイルは第1ラウンドから、素早いパンチを繰りだし、リングネームの通り、ファイトあふれる試合をしていた。(34巻5話、6話)
 ただ、チエの場合は日頃からやり慣れていない宿題だったため、宿題が終わっても、その晩は、うなされて寝付けなかった。その後遺症を治すためヒラメちゃんと共にひょうたん池で踊りまくっていた。ちょっと世界チャンピオンの器ではない。
 テツが楽しむスポーツといえば野球がある。50万円を賭けた地獄組との野球、鑑別所時代の職員との野球、西萩地区の男組対女組の野球など…スポーツとしては一番登場する割合が多い。ならばプロ野球が好きかというとそうでもない。そのくせ「アンチ巨人」なのだ。(2巻11話、7巻12話、15巻4話)
 テツが子供の頃、花井とプロ野球を見にいったことがあり、そのとき巨人のカワカミ(川上哲治)のホームラン打球が、テツの頭に激突。それ以来、巨人の帽子を見ると無性に腹が立つ性分になってしまった。(13巻7話)
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