生物学からのアプローチ

春日未知

【目次】

マサルの頭脳

チエに悪口を言うことでストレスを解消しているマサルの人生最大の研究テーマは「脳ミソ」である。

たとえば、チエに「オレ夏休みに脳ミソの勉強したんやど。勉強したらする程、脳ミソのシワができるんや」とチエに脳ミソの講釈を垂れ、テツの悪口へ展開させている。

チエにとってはテツの悪口よりも「脳ミソのシワ」のほうが衝撃的だった。(7巻11話)

それが俗説であることもマサルは知っている。それでもチエをいじめるためには、俗説であろうと、チエの気持ち悪いツボを突くのであれば、その説を力説するのである。

脳のシワと知能の関係は、猿と人間の脳を比べただけの客観的なもので科学的に実証されたものではない。動物の知能の高さは右脳と左脳をつなぐ「脳梁」と延髄の断面積の大きさに比例するといわれ、さらに人間の場合は、脳内の神経細胞の接点(シナプス)の多さが知能を比べる尺度とされる。

未発表の悪口ノートにも、脳ミソを題材にしたものが多いが、その中に「脳ミソの線が切れてしまうと、もぉ二度と生えかわることはないのだ」という文言にもあるとおり、マサルはかなり本気で脳の研究をしていたことがうかがえる。(25巻9話)

記憶や知識をつかさどる神経細胞と神経細胞を接続するシナプスは、もともと離れていて物事を思い出すときに電気的につながり、不要なときは離れた状態になっている。わかりやすく言えばスイッチがオンになったり、オフになったりすることで脳は記憶したり思い出したりしているのだ。つまり、切れる以前に離れているのだ。

脳の老化は神経細胞の死滅によるものだが、それをマサルは「切れてしまう」と表現したのだろうか。神経組織そのものは消滅するので切れるという表現が正しいのかどうかは、この際、考えないことにしたい。ただし、人間の脳の退化は20歳代から進行し、1日10万個の神経細胞が死滅している。(しかも他の細胞と違って、再生されることはない)

私も、この文章を読んでいるあなたも、否応なく脳ミソは老化しているのである。20歳を過ぎれば、マサルも例外なく「脳ミソの線が切れてしまう」のである。

さらに、マサルは「日射病で脳ミソがとけていく」話も書き残している。だが、日射病で脳ミソがとけることは、まずないだろう。極度な日射病にかかったところで、脳がとける前に死んでしまうだろう。死後の脳は収縮する。

また、脳だけを考えれば、必ずしもチエはマサルに劣っているとは言えない。受験勉強や学校の授業の一部については「海馬」という脳に集約される。海馬は原始的な脳で、一時的に記憶をストックする場所である。しかし、それが日常生活や社会で不要となれば、受験勉強の知識は自然に消去されるらしい。パソコンで言えばメモリに相当する。

かつて花井拳骨がテツに言った「あわててかしこなると、アホに戻るのも早いど」(55巻2話)というのは、本当のことなのだ。

一方、チエの場合、並はずれた計算能力やホルモンの焼き方などは、覚えようとして覚えたものではない。日常生活で必要だから自然にインプットされたものなので「海馬」ではなく大脳に記録され「運動神経」などと同じ形で保存される。繰り返し演習することによって、忘れることはない。パソコンにたとえれば、ハードディスクに必要なプログラムが書き込まれ、仕事のたびに、そのプログラムをメモリに呼び出し実行しているようなものである。

マサルの脳ミソは一部しか利用されないのに対して、チエは脳ミソ全体をフルに活用していると解釈できる。(※1)

マサルがしてきた勉強が「君の勉強が初めて人類のためになるんや」(67巻5話)とテツだけではなく、人類すべてから言われる分野があるとすれば、人間の行動の源を研究する脳医学の分野だろう。彼の活躍を願いたい。

※1 事実、人間の「脳梁」の大きさは男性よりも女性の方が大きく、そのため、男女が同じ作業を行う場合、脳の活動は男性よりも女性の方が活発である。

テツの頭脳

脳は人間の意思決定機関である。われわれの欲望や行動はすべて脳が命令して行なっている。テツにも当然、脳が存在する。

しかし、拳骨はテツの脳ミソの構造を、こう分析している。

「カラッポでメタンガスみたいなもんが、たまってるだけなんや」(14巻6話)
「カラッポでも、テツしょうもないことは、一杯頭につまっとるやろ」(28巻11話)

チエはテツの頭の中にゼンマイが入っていると思っているが、菊は「頭の中で豆腐がくさってるだけ」と言う。(21巻10話)

図説・竹本テツ

みんなは、テツの頭に脳ミソはないと考えているのだ。人間の脳ミソは、悪くてもスーパーコンピュータに例えられるのに、テツの脳はゼンマイ、くさった豆腐、メタンガスと言われている。

コンピュータが人間とチェスやオセロをして勝ったところで、人間の頭脳を超えたとは言えない。人間にあってコンピュータにないのは感情や愛情である。コンピュータが自分の意志で感情を出すようになれば、おそらく人間の頭脳並みに発達したといえるだろう。テツにまだ愛情がある以上、テツの脳も人並みに機能しているのだ。

ヨシ江に浮気の疑惑がかかったとき、テツはショックで放心状態になってしまったことがある。しかも「浮気」ということばを聞くだけで卒倒してしまう。(35巻10話)

普通、自分の妻が、あるいは最愛の人が浮気をしたり、あるいはその疑惑がわかった場合、相手を強く詮索するか、怒るか、縁を切るといった感情を出すのだが、テツの場合は違う。ヨシ江に真実を確かめたり、怒鳴り散らしたり、離婚をほのめかしたりするような事はなかった。

テツの場合、自分に不利なことは、脳のすべての機能を一時的に停止してしまうメカニズムを構築してると考えられる。

この症状を精神医学からみると心的外傷による障害(トラウマ)と片付けられるが脳から考えれば特殊なシステムが働いているとしか思えない。

この症状は、競馬で大敗したと聞かされたときや、健康診断で胃カメラを飲むことになったときにも見られた。(21巻7話、62巻6話、8話)

この症状の特性がよくあらわれているのが「もうすぐ寿命」と菊の友人に言われたときである。(28巻11話)

すなわち、平常心のテツなら自殺しそうなときや、死が迫っているときに脳は無意識に状況を分析して「仮死」状態にしてしまうのだ。

日頃、ヤクザをどついたり、お好み焼屋やカルメラ亭でタダ食いをするなど無神経な行為をしているテツは、意外にも神経が細いのかも知れない。その神経の細さを隠すために脳が、テツにヤクザを殴れ、タダ食いをしろと命令しているのだと考えられる。そして、本当に危機が迫ると脳は神経系全体をストップさせるのだ。ただし、ちょっとした衝撃で予備スイッチが入り「殴り込み」などの刺激的な言葉が脳の聴覚野に入力されると、たちまち平常通りテツの体が機能するのである。(31巻7話)

テツの記憶能力

テツ独特の防御本能は、記憶のメカニズムにも影響を与えている。

自分の利害に関係ない情報は自動的に記憶されない。

親子関係でのチエの学年情報の曖昧さは、その最たるものだ。チエのことを、今でも4年生と思ったり6年生と思っている。チエを5年生と認識したことは一度もない。(21巻8話、38巻1話、43巻5話、50巻10話)

これが普通の人間なら必要か不要か以前に基本的なデータとして記憶されるはずだが、親子間でもインプットされないのだ。自分の歳を覚えていないのも、そのせいだろう。

だが、それだけではとどまらない。花井の息子の嫁の名前もうろ覚えで、声をかけられたときに「なんじゃい花子かい」「おまえ結婚して名前変えたんか」と返事したため、朝子に怒られたことがあった。(23巻7話)

一時的に軽い記憶喪失になったときには、渉に「おまえ…ひょっとしたら渉とちゃうか」と確かめ、それを確認すると渉に「ワシがおとなしいにしてたら、ロクでもない嫁はんをもらいやがって~」と怒鳴り散らしながら追いかけたこともある。

この場合、花井朝子の記憶は、前述した大脳系の記憶ではなく、海馬にとどまった短期的な記憶だと思われる。

記憶を図書館の検索カードに例えれば「花井朝子」のカードに、その個人の性格や伝え聞いた人生を関連情報として貯え、また「渉の嫁」などの件名からでも花井朝子を検索するようになっている。だが、テツの場合は「危険人物」という引き出しがあって、そこに朝子は「花井渉の嫁」という情報が入力され、名前の情報は情報として捨てられたのだ。 この記憶障害でうろ覚えながら記憶していた人物はチエ、ヨシ江、菊、花井渉、百合根、カルメラ兄弟、勘九郎、捨丸の8人。そのうちヨシ江と菊は「うっとしい奴」として、意識的に忘れたことにしている。

このとき「うっとうしい奴」にも名前が挙がらなかったのが花井拳骨である。渉を追いかけるとき「おまえのオヤジは花井やな~」と言っているが、その後のテツの行動から、これは情報だけで拳骨の実体は消去されているように思われる。

記憶障害ながらも、テツの防御本能は正常に機能し、拳骨に関する記憶を保持する神経細胞へ脳は信号を送らなかったのだ。(16巻7話)

一方で異常に記憶しているのはヨシ江との交際期間中のことがらである。それをテツは「恥さらしな人生」と呼んでいる。(20巻13話)

これは思い出すのも恥ずかしい記憶という意味のようだが、恋愛の頃の記憶なので、小学生時代の寝小便のことで拳骨にからかわれて大恥をかいたというような「恥」とは次元の違う感情のものである。

ときどき思い出せば、恋愛の頃の記憶は心地よい気分にさせてくれるものとも思えるが、テツの場合は「恋愛」関係はすべて「恥」や「根性」の記憶領域に含まれている。

生物学的に恋愛や性欲などは生殖機能を高めることから「視床下部」という人類の祖先から受け継いだ古い脳で形成される。この脳は3~4歳で完成されるため、異性の好みのタイプは、この時期の情操教育の中で潜在的にインプットされるという。

テツの場合、大人になって、いきなりヨシ江にプロポーズするなど、恋愛に関する理性がコントロールできないので幼児期の情操教育がどうだったかはわからないが、かなり欠陥があったと思われる。

視床下部の愛情や性欲や攻撃本能は大脳新皮質によってコントロールされるため理性による押さえがきくが、テツは大脳新皮質の理性領域も破壊されているのかも知れない。ただし、テツの性欲について不明な点が多いので、一概にこの説を肯定できない。

※「脳ミソ」関係の記述は、NHKスペシャル驚異の小宇宙・人体2「脳と心」(1994年放送・全6回)を参考にしています。

遺伝に悩むチエ

マサルはチエへ悪口を言うため、遺伝の勉強をしたことがあった。当時のチエの性格と両親のデータを整理して調べるうちに「チエは大人になったらテツになるんや」という結論を導きだした。

遺伝子研究者のいう「神の領域」をマサルは垣間見たような気がしたのだろう。いままで自分がチエに対してしてきたことに反省するようになってしまい、本気でチエをビビるようになった。

マサルはチエに1枚の紙切れを渡すが、それには客観的事実で得られた、テツとチエの相似関係を詳細に記したものだった。あまりにも的を射ているため、家に帰ると早速、鏡を見て、テツに似ていないと信じようとするが、笑顔がテツにそっくりなので、チエはショックを受けてしまった。(7巻1話)

そのショックを解消したのが、ヨシ江の足の速さだった。実際に目のあたりにし、しかもヨシ江がテツに競争で勝ったという情報も得て、チエは自分はヨシ江の遺伝だと確証した。マサルもそれに安心して悪口攻撃を再開する。

しかし、遺伝の悩みは、この時に解消されたわけではない。これから後も波状攻撃のようにチエは遺伝の津波にもまれるのである。

チエは顔がテツに似たら「お嫁に行けんもんな」というほど、テツの遺伝を嫌っているが小鉄に言わせると横顔はヨシ江似だという。逆に言えば正面の顔はテツに似ていると言っているようなものである。(7巻3話)

また、菊の小学校時代の友達からは「子供の頃の菊ちゃんにそっくりですわ」と言われイヤな顔をしていた。(7巻3話、9巻10話)

テツの昔の恋人と名乗るアケミからは「テッちゃんよりヨシ江の方」に似ているとも言われている。特にこのときチエは感情を示さなかったが、内心「そらそぉや。ウチは将来お母はんみたいに美人になるねん」というような自惚れが芽生えていたのかも知れない。(20巻13話)

それでもチエの顔は竹本家の血筋であることを思い知らされる時期が訪れる。転校生里子と仲良くなり、里子を友達としてヨシ江に紹介したとき、里子はヨシ江の顔が「わたしの母さんに似てる」とチエに告白した。チエは軽い衝撃を受けた。

「……とゆうことは、ひょっとして、ウチはテツ……いやお父はんに似てるとゆうことになるの」

さらにチエへ津波第二波が襲いかかる。

「チエの顔もテツの血筋でっさかい」と菊に言われるのである。チエは「ウチはテツにもおバァはんにも似てない。なんちゅう失礼なことゆうんや」と反論するが、母親の顔はお互い似ているのに、自分は里子に似ていないので「ほんならウチはテツの方のタイプゆうことになるのか」の考え込んでしまった。(47巻4話)

そして大津波。テツにこう言われるのだ。

「ワシとおバァが悪かったら、チエ、三代目の悪相やんけ」

菊の分析によれば、竹本家の顔のタイプは菊、テツ、チエに受け継がれ、嫁いできたヨシ江だけは「顔の種類が違う」そうだ。(47巻5話)

「利己的な遺伝子」の恐怖

チエはマサルに指摘されてからは、テツの遺伝でも構わないと決心したのだが、それでも諦めきれない悩みがあった。

ヒラメが高名な画家のモデルとしてスカウトされ、その画家から1枚数十万円の絵を報酬代わりにもらうと聞いた菊とテツの反応がまったく一緒だった。

菊…「ヒラメちゃんの顔で何十万の絵を…ほんなら(ヒラメの)お母はんの顔でも何十万と何十万で何十万とゆうか。まさか百万…」(後略、菊は目を回して気絶する)
テツ…「ヒラメがあのオッさんから……モデル代の代わりに一枚何百万の絵ェ描くオッさんから絵を…」(その後、目に涙を浮かべて、関節がカタカタ鳴動する)

チエは、この2人を目のあたりにしてヨシ江に嘆いた。

「ウチこわい。あぁゆう遺伝は歳とってから出て来るんとちゃうやろか」(36巻9話、11話)

顔が不幸にもテツに似たところで化粧でごまかしたり、最終手段の整形手術をすることでカバーできるが、性格だけは簡単に変えられない。チエは竹本家本流の遺伝のビッグバンをビビッているのだ。

この章の前半で脳ミソの話をしたが、最近では脳が生命活動を支配しているのではなく、遺伝子DNAが脳を支配し、生命活動を行なわせているのではないかという説があるそうだ。いわゆる「利己的な遺伝子」(※2)説である。

わかりやすく解説すると、テツがお好み焼屋やカルメラ亭でタダ食いをすることは、すでにテツが受精卵の時代から遺伝子に書き込まれた行動パターンの一種で、その遺伝情報によってテツの体が実行しているという考え方である。つまり生物は遺伝子のロボットであるという説である。

最新の研究によると、人間の「体内時計」は脳の機能ではなく、人間が太古から受け継いできた遺伝子情報により機能していることが明らかになっている。

利己的な遺伝子を解読すれば、受精卵のうちに寿命はおろか、大人になってからの行動パターンまでわかるという。しかし現在の遺伝子学は、そこまで達していない。

人間のDNAは30億対もの塩基配列があり、それが二重螺旋状につながり、1つの細胞の中に治められている。頭の先の細胞も、爪先の細胞も、肛門の細胞も、まったく同じDNAを持っている。しかも、1個の細胞に治められた遺伝情報は100万ページの本に匹敵するという(※3)。人間の寿命を約80年と考えると、日数にして約3万日。DNAには1日当たり30ページ相当の日記があると考えることもできる。『じゃりン子チエ』の単行本で考えれば約4800巻分が1つのDNAに封じ込まれており、わたしたちが、ここで偉そうな分析を試みたところで、チエやテツの情報の2パーセント弱の研究しかしていないのだ。

チエが恐れる大人になってからの性格も、利己的な遺伝子が支配しているとすれば、チエは「2代目自称西萩小町」「女テツ」になる可能性を秘めている。世のヤンママの不良時代とは比べものにならない性格的不良の遺伝が、いつ出現してもいいように牙を磨いでいるのかもしれない。

小鉄は「チエちゃんは生まれてからずっとテツを見て来てるんやで。不良の標本みたいな男見てて、そのマネするわけないやないか」とも言うが、利己的な遺伝子説が正しいとすれば、チエはマサルの指摘するように「暴力少女」に変貌する可能性を秘めている。

すでにテツを下駄で張り飛ばす行動はチエの暴力少女化の一歩と考えられ、ヨシ江の遺伝がどれだけチエのDNAに影響しているかでチエの将来が決まるといっても過言ではない。(10巻6話)

ただし、大人になってからの性格や思考は遺伝よりも、育ってきた環境の影響のほうが大きい。チエのクローン人間が100人いたとしても、遺伝子レベルで同一でも、全員が同じ性格、同じ思考を持つとは限らない。

※2=実際の「利己的な遺伝子」説は、生物が必ず有する生殖本能を論理的に、体系的に研究して導かれた論説である。興味のある方は「利己的な遺伝子」(ドーキンス=リチャード著、日高 敏隆・岸 由二他訳、紀伊國屋書店刊)という本を読むことをお勧めする。
※3 ヒト遺伝子の塩基配列の約9割は、遺伝情報と無関係な(と思われている)「イントロン」と呼ばれる部分で構成されている。

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