百合根カオル論

灰江奈

【目次】

謝辞等

私こと灰江奈がこの論文を執筆するに当たり、過去に堅気屋倶楽部や他所様の掲示板で議論に応じて下さった方々、およびその他多くの皆様の発言の中から、考察の材料やヒントを(勝手に)いただきました。お知恵を拝借したことに対し、この場を借りてお礼申し上げます。そして、関じゃり研代表の菊地様にも、発表の場を与えて下さったことにお礼申し上げます。

なお、本文中に「第何巻第何話」と記載がある場合は、文庫本等ではなくアクションコミックスのことです。まことに申し訳ございませんが、アクションコミックスをお持ちでない方は、ご面倒でも相互リンク先のサイト「西萩闊歩」にある対照表等をご参照下さい。(文庫本等の該当箇所を併記することも考えましたが、諸般の事情によりできませんでした。)

まえがき

本論に入る前に、私がどういう考え方に基づいて本稿を執筆したか、説明して理解していただくべきだと思うので、しばしご辛抱の上、能書きにお付き合いいただきたい。

(1)「作者の意図」に関して
まず、「作者の意図」に対する私の考え方を述べておく。この問題については堅気屋倶楽部でも色々と言われているので、本稿中における自分の立場を明らかにしておく必要があろう。

当サイトに掲載の論文「はるき悦巳の秘密(執筆:伊藤顕氏)」には、下のように書かれている。

「けっして、作者がこういうのだからそう、ということはありません。読む人、読む時々などによって作品の受け捉え方が違ってよいのです。」

また、本稿では、作品の外から作者のコメントを探してきて引用することは一切していない。この理由の一つとして、私が甚だ不勉強な輩で作者のコメントなどはほとんど知らないから、ということもある。しかし、これだけが理由ではなく、一応別の理屈もある。矛盾するように聞こえるかもしれないが、作者のコメントに頼って作者の意図を推理したくないからだ。私とて、前述した「はるき悦巳の秘密」なども読んでいるし、それ以外の資料にも少しは目を通したことがあるから、作者のコメントを全く知らないわけではない。だが、それらに頼ることも本稿では意識的に避けた。例えば、本稿で私が推理した作者の意図について作者にインタビューしたとしよう。それで作者の回答が私の推理と一致すれば私が正しいことになるのだろうか。そういうことにはなるまい。作者がいつでも100%本音ばかりを飾らず隠さずに語るとは限らないからだ。(決して作者が嘘つきだなどと思っているわけではない。しかし、極論を言えば、たとえ「読者はバカだ」と心で思っていたとしても、普通そんなことは口には出さないだろう。)

作品世界において間違いなく真実だと言えることは、作品それ自体から自明な事項として読み取れることだけだ。「作者の意図」もまた、作品そのものから読み取るべきものだろう。とはいえ、作者のコメントは、それはそれで大変貴重な資料にはちがいない。また、作者のコメントから何かを推理しようとすることも、それはそれで有意義な考察であり、大いにやるべきだと思う。ただ、本稿の中では作者のコメントに頼ることはあえてしない、というだけの話だ。

(2)「作品の真価を引き出す読み方」とは
研究論文を書く動機や目的は人それぞれであろうし、時と場合にもよるだろう。ただ、本稿について言うと、「作品の真価を引き出す読み方」を追求することを究極の目的としている。もちろん、本稿のごときもので「作品の真価を引き出す読み方」に到達できたなどと大それたことは思ってもいない。しかし、理想としてはそこに一歩でも近づきたいのだ。本稿では、作者の意図についてあれこれ推理もするが、それは本稿のごく一部に過ぎない。「作品の真価を引き出す読み方」を探るための手がかりとして作者の意図であろうと何であろうと利用する、というだけである。くどいようだが、作者の意図に縛られるつもりは全くない。

唐突だが、下記の会話は、漫画「美味しんぼ」からの引用である。

(ゆう子)
「それぞれ、好きなように飲めばいいじゃないの。」
(士郎)
「そりゃそうだけどさ、そんなことでいいのかね…」
(絹江)
「と、言うと?」
(士郎)
「どんな飲み方してもいい、なんて言うのは本当は、ウイスキーの真価を引き出す飲み方を、俺たちが知らないからだってことも、あり得るんじゃないの?」
(小学館ビッグコミック「美味しんぼ(雁屋哲および花咲アキラ著、小学館)」
第70巻「スコッチウイスキーの真価」第79ページより。)

ウイスキーの飲み方はともかく、「じゃりン子チエ」の読み方についてはどうだろうか。「事実」や「真実」が明確に描かれていない事項については、たしかに人それぞれの解釈があっても良い。しかし、もしかしたら「たった一つの真実」があるかも知れないのに、それに気付かずにいる場合もあり得るのではないだろうか。「事実」や「真実」は誰の目から見ようともたった一つであり、それを解釈でねじ曲げることは許されない。そして、「作品の真価を引き出す読み方」に近づくためには、小さな「事実」や「真実」の発見を一つ一つ積み重ねていくしかないであろう。

すでに言った通り、本稿のごときもので「作品の真価を引き出す読み方」に到達できたなどとは思っていない。だから、何が「作品の真価を引き出す読み方」なのか、という明確な答えも本稿では示していない。しかし、少なくとも、そこに到達するための踏み台くらいは作れたであろうと自負している。足りないところは多々あるが、それは後続の優秀な研究者の方々に補っていただければいい。
……と、くだくだしい能書きはこれまでにして、そろそろ本論に入ろう。

第一章:「百合根カオル」

(1) ボクには名前が二つあるからね
この論文は全二章からなり、まず第一章で百合根カオルという少年の人物像について考察し、それを踏まえた上で、第二章では物語中での彼の役割について、特にチエとの関係について論じる、という構成をとっている。なお、第二章では、作品中に登場するカオル以外の男の子達についてもチエとの関係から論じる。

ベテラン読者には言わずと知れたことだが、百合根カオルは、お好み焼屋の主人である百合根光三の息子だ。カオルは、両親が離婚し、母親とその再婚相手に引き取られているので、現在の名前は「今西カオル」というのだが(第34巻第7話)、本稿ではあえて「百合根カオル」と呼ぶ。なぜこの呼び名にこだわるのかは、本稿を読み進めるうち次第に分かっていただけるはずである。この、両親の離婚という事柄から離れてカオルを語るわけにはどうしてもいかない。同じように両親が離れ離れになったことのあるチエにとっても、彼は共感できるところのある人物だろう。もっとも、チエの両親はよりを戻すことができたのに対し、カオルの両親は再び元に戻ることはなかった。そして、彼を象徴するのは何といってもこのセリフだろう。

「ボクには名前が二つあるからね。」
(第12巻第11話「宝塚のホームにての巻」)

父親と引き離されてしまった彼の哀しみが端的に表れているセリフだと思う。その「哀しみ」が、カオルには体の芯まで染み付いてしまっているのであろう、作品中での彼の表情はいつもどこか愁いを含んでいて、心の底から晴れやかな笑顔を見せたことはついに一度もなかった。

(2) 批評家曰く
カオルの人物像について私の考察を述べる前に、批評家が彼のことをどう分析しているのか、ごく簡単に紹介しておく。

今では入手困難だが、「『じゃりン子チエ』という生き方(長尾剛著、双葉社)」という本(以下、本稿中では「生き方」と略すことがある)があり、カオルについて多少なりとも詳しく論じた書物となると、実のところ、私はこの本くらいしか知らない。そして、「生き方」の中で、著者の長尾剛氏は下記のように述べている。

「百合根のひとり息子であり、離婚後は百合根の先妻に引き取られているこの少年は、両親の離婚というつらい運命を背負わされ、それでも健気にその運命を受け入れている。百合根の父の愛を大切に心に秘めながら、新しい家庭でよき息子であろうと努めている彼の姿はいじらしく、感動的でさえある。」

これは全くその通りであり、ベテラン読者には何の説明も要るまい。長尾氏は下のようにも言っている。

「また彼は、コケザルなどはもとより、チエのまわりの男子の誰もがかなわないほどの気品をそなえている。何しろ彼はブレザーを着こなし(第12巻第6話)、腕時計を身につけ(第12巻第10話)、そしてピアノを弾くのだ!(第34巻第7話)」(「生き方」第64ページ)

この引用箇所のうち、前段には私も全面的に同意する。だが、後段で彼の「気品」がブレザーや腕時計やピアノに由来するように書かれているのは、あえて断言するが長尾氏の過ちである。この点については後述する。

なお、「生き方」については以後もしばしば引き合いに出す。ときに非難がましいことも言うが、別に長尾氏に対し恨みがあるわけではない。「生き方」にはたしかに問題点もあるが、全体としては良質で価値のある批評書だと私は思っているので、その点は誤解のないようにお断りしておく。

(3) 全てに恵まれた子
以下は、私自身の考察である。

カオルの人物像を考察する、とは言っても、彼は第12巻と第13巻のごく一部にしか登場しないし、普段の生活等に関してはまったく描かれていないに等しいので、不明な事が多すぎる。その上、彼は極めて無口で、用がなければ何百日でも黙っていそうな子なので、何を思っているのか分からないところがある。しかし、そうはいっても、原作に描かれている事実から出来得る限り解明していきたいと思う。まず言っておくと、彼ほど「取り柄だらけ」の人物は、「じゃりン子チエ」の中でもそうは見当たらない。「取り柄」というよりは、色々なことに恵まれている、というべきか。

第一に、人間性については、後にも詳しく述べるが、おおむね上記の長尾氏のコメント通りである。第二に、才能に恵まれている。第三に、家庭環境にも恵まれている。確証はないが、前述のブレザーだの腕時計だのピアノだのから見て、今西家はおそらくは小林家(マサルの家)よりも裕福なのではなかろうか。さらに、ごく瑣末な(?)ことを付け加えると、「百合根カオル」という名から感じられる印象通り、彼はなかなかの美少年でもある。もっとも、初登場の回とその次の回(第12巻第5話および第6話)くらいまでは、まだ顔の造形が定まっておらず、かなりの違和感があるが。上で列挙したカオルの数々の「取り柄」のうち、「才能」についてはここでちょっと説明が必要かと思う。

まず、作品中から、彼は少なくとも美術と音楽が得意であるらしいことが分かる(第13巻第1話および第34巻第7話)。このうち音楽については、ただピアノを習っているということが明らかなだけで、いかほどの腕前なのか全く分からない。だが美術については、センスはともかく技巧では同年代の少年少女達のレベルを大きく超えているようである。なんとなれば、「大阪で一番絵がうまい少女」のヒラメが、カオルの制作した版画を見て下記のように言っているからだ。

「ものすご上手やわ。」
「ウチ こんなん出来へんもん。」
「ほんまに上手やわ。ウチ 字のとここんなうまいこと彫られへんもん。」
「ほんまに こおゆうふうにきれいにやるのむずかしいねん。」
(第13巻第1話「遅れた年賀状の巻」)

カオルの「才能」に関する描写は、アクションコミックス全67巻をしらみつぶしに見てもたったこれだけしか見当たらないが、これだけでも彼の能力が凡庸ではないことは十分に分かる。際立った才能の持ち主が多い「じゃりン子チエ」登場人物の中にあっても決して他者に引けを取らないであろう。

(4) 「知らんふり」のできない子
下記のテツのセリフは、チエマニアにとってはあまりに有名かと思う。

「ワシなんかほんまは強烈にカンええんやど。
 そやけど あんまりカン働らかすと不幸になるから知らんふりしてるんや。」
(第15巻第8話「行きはよいよい帰りはこわいの巻」)

テツのことは後にあらためて述べるが、カオルは、ここでテツが言うところの「知らんふり」ができない子の典型ではないだろうか。端的に言えば、お好み焼屋のオヤジのことなどきっぱり見捨てて「知らんふり」してしまえば、カオルは、裕福な家と申し分のない両親とに恵まれた「今西カオル」として、この上なく幸福でいられるのだ。しかし、彼は「百合根カオル」を捨てきれないので、父の日には光三に電話をかけてくるし(第22巻第4話)、ピアノリサイタルのときにはハガキで知らせてくる(第34巻第6話)。光三の飼い猫のジュニアも、そんなカオルについて「ええ子やろ。ちゃんと知らせてくれるんや。」と言及している(第34巻第6話)。ちなみに、上記の第22巻第4話「雨の日・父の日…の巻」は、じっくり読むと色々な意味で味わい深い話である。「テツ大好き」というようなチエの気持ちをしっかりと理解しているマサルはさすがであるが、カオルにとってもそういうチエの気持ちは別の意味でよく理解できるところかと思う。しかし、前述の通り、チエの両親はチエの働きの甲斐もあってよりを戻したのに対し、カオルの両親は元に戻れなくなってしまった。両親の仲を修復することが、チエにはできて、カオルにはできなかったのである。カオルは、そんなチエのことをどう思っているだろうか。光三が月に一度のカオルとの面会に出かける朝に、ジュニアと下記のような会話(?)をしていたことがある。これを読むだけでも、カオルが父親(光三)と母親の両方に気を遣って苦労している様子がありありと目に浮かぶような気が私にはするのだが、どうであろう。

(光三)
「今日 ワシ カオルを連れて角座にでも行こと思てるんや。 この前カオルに聞いたら 母親に連れられて宝塚歌劇に行ったゆうやないか。 男があんなデレデレしたもん見てどおするんや。」
(ジュニア)
『オレ 一ぺん見たい思てるんやけど。』
(光三)
「男やったら角座へ行って思い切り笑らたらんかい。」
(ジュニア)
『別に漫才が男らしいとも思わんけど。』
(第17巻第7話「トリオ ロス パンチョスの巻」)

一度、ジュニアが小鉄に対して下のように言ったことがあるが、言葉遣いさえ変えればカオルからチエに向けられたとしても違和感のないセリフかと思う。

「ゆうとくけど なにも労働を提供するのだけが苦労やないど。
 オレみたいに 愛情の地雷原みたいなとこで身動きとれん生活するゆうのも大変な苦労なんやど。」
(第27巻第9話「テツのバクチ相手の巻」)

ちなみに、前述の「ボクには名前が二つあるからね。」というセリフは、カオルがチエに面と向って実際に発したセリフである。この短い言葉には色々な意味が込められていそうだが、その意味の一つとして上のジュニアのセリフのようなことがあったのではないか、と思えないでもない。カオルから「ボクには名前が二つあるからね。」の言葉を聞かされたチエは、あとでヨシ江に対し「なんかウチよお分からんわ。」と述懐しているのだが、果たしてチエにはカオルの気持ちがどこまで通じたのだろうか。

(5) 光三とカオル
「子は親に似る」「親を見れば子がわかる」などとよく言われるが、それはじゃりン子チエの世界においてもあてはまる。そしてそのことは第7巻の父兄運動会の巻等で端的に示されている。

花井拳骨と渉などは、ややもすると「似てない親子」の代表のように見られがちであるが、それでも渉はやはりどこかに拳骨の子らしいところがある。教育者として自分の信念を決して曲げない一徹ぶりは、やはり拳骨から受け継いだものと見て間違いないだろう(第6巻第10話等)。したがって、カオルも、実父である光三の気性を全部ではないにせよ受け継いでいておかしくない。

なお、光三の人物を見るにあたって注意すべきことがある。それは、彼が「どうせまともでないオヤジ…いやちょっと変ったオヤジ」(第26巻第1話)と見られがちなことだ。この認識は別に間違ってはいない。ただ忘れてはならないのは、彼はもとから異常だったのではなく、最愛の息子と引き離されてしまった悲しみのあまり「まともでなくなって」しまったのだ、ということだ。聡明なチエはそのことを理解している。

「オッちゃん 前は猫のことばっかりやったけど カオルゆう子と会うてからまともになってたやん。それがまたジュニアのことで」
(第16巻第4話「仲間を大切にの巻」)

気も狂わんばかりに息子のことを愛していた(そして今も愛している)ということだ。光三本人は、息子について下のように語ったことがある。

「ジュニアでもあれですわ。どんなにかわいがったか分かりますやろ。」
(第7巻第9話「みんなで海への巻」)

この光三とカオルの百合根親子は、表面上の言葉つきや態度はまるで似ていない。例えば、父親はにぎやかでひょうきん者、息子は寡黙で生真面目、などとおそらく一般には思われているだろうし、また事実その通りだろう。しかし、芯の部分ではこの二人は非常に似ているように私には見える。カオルのいったいどこがオヤジに似ているというのか?それは、以下に挙げるいくつかのセリフを読めば、ベテラン読者にはなんとなく納得していただけるのではないかと思うが、いかがであろうか。これらのセリフは、いずれもチエの光三に対する評価である。

「あのオッちゃん シラフの時はデリケートやからなあ。」
(第14巻第12話)
「この花持って来たんはお母はんやない。お好み焼屋のオッちゃんや。  あのオッちゃんは意外とロマンチストやねん。」
(第3巻第11話)
「そぉゆう 強烈に人のええ気のきき方する人ゆうのは… お好み焼屋のオッちゃんくらいしか」
(第22巻第2話)

(6) ミツ子とカオル
それでは、母親(ミツ子)からカオルに遺伝したものが何かあるのか、それは正直言って私には分からない。しかし、カオルの芸術家としての資質は、どうも光三の遺伝のようには思えないから、これはもしかしたら母親の方の遺伝なのかもしれない。(光三に芸術家として飛びぬけた資質があるとは思えず、本人も「ワシ そんな高級なマネ出来へんがな。」と明言している(第13巻第2話)。) そもそもミツ子の人柄や気質自体が作品中にはほとんど描かれておらず、全く分からないに等しい。ただ、光三のところから家出して長年何の連絡もよこさず、戻ったとたん離婚を言い渡すという行動(第13巻第3話)などから見て、おそらく「作者が正面からまともに描くのをためらってしまうほどキツい性格」をしているのではないだろうか。彼女のこの振る舞いから見れば、マサルの母などは赤ん坊のように無邪気で可愛らしくさえ思える。もっとも、離婚調停成立後、光三がカオルをミツ子に引き渡すことを決めて「これで良かったんや……。ワシ ほんまにそお思いますのや。そおでっしゃろ……」(第13巻第12話)と言っているところを見ると、彼女も決して悪い人間ではないのだろうが。ともあれ、カオルもそんな母親の目を盗んでたった一人で光三に会いに行くのだから(第12巻第11話等)、思いのほかしたたかだ。ただおとなしくて優しいだけの男ではないことは確かである。しかし、そうかと思うと彼は、コケザルとはじめて対面したときに脅されて腕時計を取り上げられている、というような面も持ち合わせている(第12巻第10話)。光三はヤクザ連中から「アホなアホなお人好し」と呼ばれているのだが(第21巻第12話)、その息子のカオルも、やはり同じようにまわりの人間からは言われているのだろうか。

(7) 百合根カオル―誰もがかなわないほどの気品
すでに述べたが、両親の離婚という点にさえ目をつぶれば、カオルほどあらゆる点で恵まれている子はまずいないのである。才能や財産に恵まれているだけでなく、母と養父にも愛されて何不自由なく暮らしていることもわかる。そうでなければ、前述の通り、光三が「これで良かったんや……。ワシ ほんまにそお思いますのや。」などと言うはずがない。しかし、それならばカオルは今幸福かというと、決してそうとは言えないことは、これまた前述の通りだ。どれほど金があっても、能力があっても、人から愛されていても、手に入らない「幸福」があるということを、カオルという登場人物は読者に見せてくれているのである。そして、カオル自身もそれをよく自覚しているはずだ。いくら金があっても、芸術の才能があっても、そのようなもので両親の離婚を食い止められるわけではないからだ。

お分かりであろうが、百合根カオルという少年の本当の美点は、才能や容姿や財産に恵まれているところにあるのではない。そういうものに恵まれながら、それらの限界と空しさを身をもって知っており、決して自慢げにひけらかしたりしないところにあるのだ。長尾剛氏言うところの「チエのまわりの男子の誰もがかなわないほどの気品」は、ここから生まれているのである。したがって、ブレザーや腕時計やピアノといった要素をすべて取り去っても、彼の「気品」は、少しも損なわれることはない。これまた長尾氏の表現を拝借すると、カオルは「能力とともに人間性をも尊敬できる優れた精神をもつ、真のエリート」なのだ。

(8) 真のエリート
カオルは「真のエリート」である、ということが彼の人物像解析においての私の結論である。しかし、皆様は彼のことをどうお感じになるだろうか。中には、彼の素晴らしさは認めるが、あまりに「良い子」として美化されすぎているために個性が見えず魅力が感じられない、とお思いの方もいらっしゃるだろう。そのように感じてしまうのは無理もないと思う。かく言う私自身、実は同様の感想を抱いていた時期もあった。だが、ただそれだけでカオルの全てを判断してしまうのは早計に過ぎないだろうか。何しろ我々は彼のごく一部分しか知らないのだから。

欠点らしい欠点が見当たらないという点では、例えばヨシ江も同様である。あのようなカンペキな女性など、現実には、居ないわけではないがそう多くはあるまい。しかし、だからといってヨシ江が無個性かというとそんなことはないし、まして彼女に魅力がないなどとは決して言えない。ヨシ江はレギュラーキャラとして常時登場しているにも関わらずミステリアスな部分が多いが、カオルはヨシ江にもまして作品中で自分をほとんど見せないまま終わってしまった。彼のことを、もっと見たかった気がする。

第二章:チエの恋の相手

(1) チエの恋の相手
カオルは、第13巻の最終話を最後に再び作品中に姿を見せることなく終わってしまった。しかし、なぜなのだろうか。上記の、カオルが最後に登場した話の中における光三の弁によると、カオルはその後も月に一度は大阪に来ているはずである。そして、カオルが宝塚からどこか遠くへ引っ越したという話もない。だから、カオルがその後何度も作品中に登場していても何ら不自然ではないのだ。なのについに一度も登場していない。私は、このことを長い間疑問に思っていたのだが、あるとき、下記の結論に思い至った。

「カオルは、チエの恋の相手として創造された。作者は、チエとカオルとの関係に、さらにマサルやコケザルも絡めた恋愛話を大々的に描くつもりだったが、なぜか予定が変更され、カオルは、その後登場することはなかった。」

この説の当否についての検証は、後の第(6)節から第(9)節までで述べる。

(2) チエのまわりの少年達
上記の説の検証、およびカオルとチエとの関係についての考察はしばらく置く。チエの恋愛について検証するには、カオル以外の男の子とチエとの作品中における関係はどうであるのか、という点も無視できまい。まず、それを、ごく簡単にではあるが見ていくことにする。

作中登場人物で、チエの恋愛対象になりそうな人物、すなわち同年代の男の子といえば、カオル以外には、マサル、タカシ、コケザル、丸太(ヒラメの兄)くらいだろう。しかし、このうち丸太については、チエとの間に何か特別な感情、特に恋愛的な感情があるようなことを示す描写は、少なくとも私には発見できなかった。したがって、上記の四人のうち、丸太以外の三人について述べることにする。なお、チエと同年代の男の子は、他にも、コケザルの弟分(氏名不詳)やクラスメートの他所見君など多数居るが、彼らのことは私にはよく分からないので解説を省略する。

(3) チエとコケザル
マサルとタカシとコケザルの三人が三人ともチエに対して何ごとかを感じているのは間違いない。それが恋愛感情と呼べるものかどうかは別として、だ。まず、コケザルであるが、彼が早い段階からチエに好意を抱いていたのは間違いない。そのことを示す証拠はいくつもあるが、例えば彼がチエに対して下のように言ったことがある。

「ワシ おまえと一ぺんゆっくり話がしたかったんや。」
(第15巻第8話)

これは、普段「ひねくれ者」のコケザルがチエに対して精一杯素直に好意を示した場面だと思うが、この言葉に、チエは、苦笑しながら「ウ… ウチはあんまり。」と答えているだけである。つまり、チエの方では別にコケザルに対し好意などは持っていない、ということだろう。明らかに。とはいえ、チエもこの頃までは、特に最初の頃はコケザルのことをまんざら嫌っていたわけでもないようだ。例えば下の会話などはどうだろうか。

(コケザル)
「ワシ どっか行く前にあいさつに来たんじゃ。しょうもないメシやけど食わしてもろたからな。」
(チエ)
「(註:笑顔で)あんたはものすごい不良やけど そうゆうとこがええとこや。お母はんがそないゆうとった。」
(第3巻第4話)

そんなチエとコケザルの仲が次第にまずくなり始めたのは、第16巻でコケザルがチエの近所に引っ越すことが決まってからである。どうも、この頃からコケザルがあまりにうるさく付きまとうようになったので、チエも次第に嫌気がさしてきたようだ。そのうちには「5メートル以上ウチに近づかんといて。」とまで言うようになった(第18巻第2話)。そして、チエ一家がコケザル一家の引っ越し祝いに招待された日に決定的な破局が訪れた。上記のようにチエとコケザルの仲がまずくなってきていたところで、コケザルがちょっと言葉の使い方を間違えたために取り返しがつかなくなってしまったのだ。そのときのチエとコケザルの会話を、長くなるが下に引用しておく。

(コケザル)
「ワシとこのお母はん 見栄はりやからな。今日はきっと「特」を出しよるど。」
(チエ)
「「特」…!?」
(コケザル)
「聞いたことないやろ。まあ おまえとこはいつも「梅」かキバったとこで「竹」どまりやろからな。」
(チエ)
「な…なにや それ。」
(コケザル)
「知らんのか。寿司には上から「松」「竹」「梅」とランクがあるんや。」
(チエ)
「寿司!!」
(コケザル)
「「松」がまぁ一番高いんやけど その上にまだ「特」ゆうのがあってな」
(チエ)
「それ以上ゆうな。」
(コケザル)
「おっ…!? 知ってたんか。」
(チエ)
「今あんたのゆうたことで ウチ ハッキリしたわ。」
(コケザル)
「なにがや……」
(チエ)
「ウチ おバァはんがゆおと お母はんがゆおと
 誰がなんとゆおと 今日あんたとこには行けへんからな。」
(コケザル)
「なんでやねん。」
(チエ)
「ウチ あんた 不良やけど もおちょっとマシな子と思てたわ。
 寿司が高いとか安いとかそおゆうことゆうタイプとは思えへんかったわ。」
(コケザル)
「別に ワシ イヤ味で」
(チエ)
「聞きたない!!」
(第18巻第6話「キツネうどんが食べたい!!の巻」)

これ以降、チエはコケザルを徹底的に忌み嫌うようになり、彼に対してまったく心を開かなくなった。そして、コケザルのチエに対する想いも冷えきってしまったようだ。

(4) チエとタカシ
次にタカシであるが、彼は、普段は、マサルへの遠慮からか、チエに対する自分の気持ちをはっきりと表すことはない。しかし、一度、チエとタカシ以外のクラス全員が、マサルやヒラメを含めて風邪で学校を休んでしまったことがあった。そのためチエとタカシが学校で二人きりになるという極めて珍しい状況が生じ、そのときに彼はチエと下のような会話をしている。この会話を読めば、チエとタカシのお互いに対する気持ちがどんなものか大体分かるであろう。説明を加える余地はないかと思う。

(タカシ)
「チエ~~。待ってくれ。なんでそんなにおこってるねん。」
(チエ)
「うるさい。」
(タカシ)
「う… うるさいて そんな… オレらの組で風邪ひけへんかったん オレら二人だけやねんから」
(チエ)
「それゆわんといて。ウチ死にたなるわ。」
(タカシ)
「そ… そんなことゆうけど オレら仲ようせんと…。」
(チエ)
「なんで ウチ あんたと仲ようせなあかんねん。」
(タカシ)
「なんでて その… オレ ゆうとくけど
 オレは その… 別に チエのこと嫌いとちゃうんやで。」
(チエ)
「気持悪いことゆわんといて。ウチ あんたになんか好かれたない。」
(第24巻第12話「復讐の風邪袋の巻」)

(5) チエとマサル
そしてマサルだが、彼とチエとの関係は非常に難解であり、一筋縄では解き明かせない。この問題について徹底的に論じようとすれば、本稿の字数を全部費やしても足りないかも知れない。だが、本稿はマサル論ではないので過度に深入りすることは避ける。マサルについてなら、関じゃり研のサイトには「サディスト・小林マサル(執筆:菊地馨氏)」や「小林家の男たち(執筆:伊藤顕氏)」といった論文もあるので、とりあえずはそれらを読んでいただくのがいいだろう。また、前述の「生き方」という本(長尾剛氏)でもチエとマサルの関係について一章を設けて論じているので、未読の方は機会があればお読みになるといい(ただ、前にも言った通り、この本は今は入手困難である)。これら三つの論文はそれぞれに違った見解から書かれているので、できれば全てを読み比べた上で、さらにはご自身であらためて原作を熟読なさった上で考えてごらんになることをお勧めする。

私も、一応自分の見解を以下にごく簡単に記すことにする。まず、マサルの側からチエに面と向って「仲良くしたい」「ゆっくり話がしたい」といった意思をはっきり表明した場面は、ないと言っていい。そもそも、彼がそういう意思を持ってチエに近づいているのかどうか、はっきり断定できるだけの証拠もおそらくないだろう(この点が、タカシやコケザルとは違うところである)。チエの方でも、マサルに対して決して好意的な感情は持っていまい。例えば、前述のチエ一家がコケザル一家の引っ越し祝いに招待された話の中で、チエは下のように言っている。

「よお見とき。あんた(註:コケザル)の友達や。
 マサルゆうてな。寿司食べたら金持ちとかしょうもないことばっかり自慢してる子や。」
(第18巻第6話)

同じ話の中でのチエとコケザルとの会話をすでに紹介したが、その会話と上記のチエのセリフとだけを見る限り、「チエは、コケザルも嫌いだが、マサルはそれ以上に嫌い」という分析が成り立つ。しかし、ただそれだけで片付けてしまうわけにはいかないから難しい。例えば、一度マサルの引っ越しの話が持ち上がったことがあったが(結局は引っ越しは中止になったのだが)、そのときの小鉄とジュニアの会話によれば下記の通りである。

(ジュニア)
「チエちゃんは マサルから開放されることになって 連日盛り上っとるのか。」
(小鉄)
「それは… そぉでもないんやな。なんか 気が抜けたみたいで…。」
(第25巻第9話「根性の腰ぎんちゃくの巻」)

まことにチエとマサルの関係は奥が深く、考えれば考えるほど分からなくなるところでもある。もしかすると、当人達にさえよく分からないのかも知れない。

皆様は、例えば前記の三つの論文を読んで、あるいは原作そのものをあらためて読んでどのような感想をお持ちになるだろうか。

(6) 「百合根カオル」という名前(その1)
ここで、カオルに関する前記の説について、すなわち、カオルが「チエの恋の相手」として作者により創造されたのか、という点に関する検証に入る。

まず、「作者の意図」という観点から「百合根カオル」という彼の名前について検証する。結論から言うと、この「百合根」という苗字はお好み焼屋のオヤジにではなく息子のカオルに名付けた苗字なのだ。そのことは原作を注意深く読むことによって分かる。以下、具体的に説明する。そもそも、この「百合根」という苗字が読者にはじめて明かされたのは、第12巻第7話「マサルの写真の巻」の話の中であり、これはちょうどカオル登場のエピソードの渦中でのことだ。実は、お好み焼屋のオヤジはそれまで氏名不詳であり、誰からも「お好み焼屋のオッちゃん」「お好み焼屋さん」などとしか呼ばれていなかったのである。そして、カオルは最初は正体不明の少年として登場したのだが、上記の話の中で「百合根」という苗字が明らかになると同時に、彼がお好み焼屋の息子であることと、その名前が「カオル」であることも明らかにされている。これに対し、オヤジの名前「光三」がはじめて明らかになったのは、実はずっと後なのだ(第18巻第9話)。

これらのことから、作者は「百合根」という苗字をお好み焼屋のオヤジの苗字として考えたのではなく、彼の息子のキャラクターを作るとともに「百合根カオル」という名を与えたと推察できる。語感や字義から見ても「百合根」という苗字と「カオル」という名前とはセットで考えたと見るべきだろう。カオルは、よく「百合根の息子」という呼び方をされるが、それは逆で、本当は「百合根カオルと、その父親の光三」というプロットになっているのだ。

(7) 「百合根カオル」という名前(その2)
さらに注意深く読むと、作者がこの「百合根」という苗字に並ならぬ思い入れがあることも分かる。作品や作者をけなすために言うのでは断じてないが、「じゃりン子チエ」は、登場人物の名前に関しては存外いい加減とも思えるところがある。マニアックな読者ならご存知の通り、「小林マサル」は、「藤井君」と呼ばれていたこともあるし(第1巻第49ページ、ただし初版限定)、「天野勘九郎」は、「島勘九郎」と名乗っていたこともある(第31巻第116ページ、ただし初版限定)。それなのに、「百合根」という苗字に関しては、作者自身が強くこだわり定着させたがっている様子が見て取れる。そのことを示す描写が第12巻と第13巻の中に何箇所もあるのだが、一箇所だけ下に引用する。チエとテツとの会話である。

(テツ)
「あの お好み焼屋のオッさんな」
(チエ)
「オッさんてなんやねん 長いことつき合うとって。あのオッちゃん ちゃんと名前あるんやで。」
(テツ)
「名前!?」
(チエ)
「そおや。あのオッちゃん 百合根 ゆうんや。」
(テツ)
「ユリネ……!?」
(チエ)
「そお。ユ・リ・ネ。この頃は お母はんもおバァはんも百合根さんて呼んでるで。」
(テツ)
「そ… そんなこと ワシ今初めて。そやけど お好み焼屋のオッさんでどこが悪いねん。」
(チエ)
「そやけど 百合根さんの方がいいやすいやろ。」
(テツ)
「なにがユリネさんじゃ。いいやすいんがええんやったらブタでもタコでもノミでもシラミでもええやないか。」
(チエ)
「メチャメチャゆうなぁ。」
(第13巻第4話「落ちつかない屋根の上の巻」)

上の会話の中でのチエの主張は、よくよく考えてみるとおかしい。チエだけでなく、おバァもヨシ江も「百合根」という苗字を知ったのはごく最近のことであり、前述の通り、それまで長い間「お好み焼屋のオッちゃん」「お好み焼屋さん」などとしか呼んでいなかったのだ。さらに、お好み焼屋と同じように近しい知り合いであるカルメラ兄弟に対しては、これまでもこの後もずっと「カルメラのオッちゃん」「カルメラさん」などとしか呼んでいない(ずっと後になって、チエとおバァとヨシ江が、彼らの「菊崎」「山下」という本名を懸命に覚えようとしたことがあるが、それは特段の事情があってのことだ。)。

つまり、はっきり言って、チエがテツに対して偉そうに言うような資格は何もないのだ。「百合根さんの方がいいやすいやろ。」というのも取って付けたような理由である。テツの言い分の方が、一見メチャメチャではあるがよほど筋が通っていることが分かるだろう。そして、皆様ご承知の通り、その後、この「百合根」という呼び方が作品中でも読者の中でもすっかり定着した。他のキャラの名前、例えば前記の「小林」や「天野」という苗字の扱いと比較すると、「百合根」という苗字に対する作者の思い入れの強さが一層はっきりする。特に、「天野」の苗字は、「百合根」の苗字とまったく同時に明らかにされている(第12巻第7話)ためになおさらである。お好み焼屋と勘九郎が互いに苗字を明かして自己紹介したとき、チエは「ちゃんとした時は百合根のオッちゃんと天野のオッちゃんで行こ」と言っているのだが、結局その後チエが勘九郎を「天野のオッちゃん」と呼んだことは一度もないし、それ以前に、前述の通り勘九郎自身が自分の苗字を間違えている。「天野」のほうは作者自身すぐに忘れてしまっておいて、「百合根」のほうには執拗にこだわるとは、どういうことであるか。

このような言い方は非礼にあたるかも知れないが、普段名前に対しさほど頓着しない作者がこれほど名前にこだわるということは、その名前を付けたキャラに対してもよほど強い執着心があるとしか思えない。そして、この「百合根」と言う苗字をオヤジのためではなくカオルのために名付けたことも前述の通り明らかである。お好み焼屋のオヤジのためにこの苗字を考えたのだとすれば、なぜそれまで氏名不詳だったオヤジが息子の登場と同時に突然「百合根」になったのか、また「百合根」の苗字と「カオル」という名前が同時に明かされているのに「光三」という名前はずっと後で明かされたのか、説明がつかない。百合根カオルは、本当は物語中で「小林」マサルや「天野」コケザルよりももっと重要な役を担うはずだった、と考えてもおかしくはあるまい。

(8) 第12巻について
上記のことだけでは、カオルが担うはずだった役回りが「チエの恋の相手」だったのかどうか分からない。しかし、第12巻の描写をしらみつぶしに見ていくとそれが分かってくる。重要な描写が多過ぎてとても全部説明しきれないが、この巻のあらすじだけを以下でざっと追う。

まず、第12巻の話は、チエとヒラメに対するマサルの攻撃が激しくなるところから始まる。彼女らへのマサルの悪口攻撃はこのときに始まったことではないが、この巻では普段にもましてマサルの攻撃が強化されるのである。そうなったきっかけは………、いや、そんなことはどうでもいい。そんなある日、チエとヒラメの前に、ブレザーを着た謎の少年が現れる。これが第12巻第5話での出来事だ。この少年がカオルなのだが、彼の名前や素性は、まだチエもヒラメも読者も誰も知らない。

次の第6話「ブレザーを着る子の巻」の前半部分では、チエとマサルの二人だけの深くて強い心の絆?が描かれる。どんな話かは、説明するより実際に読んでいただくのがいいだろう。やはりチエとマサルの関係は奥が深い。この話の後半部分では、チエとヒラメが再びブレザーの少年に出会う。彼の正体はまだ明かされない。

さらに次の第7話「マサルの写真の巻」には、特に注目すべき描写が一杯詰まっている。まずマサルが、次にテツがチエにからんでくる場面から始まるのだが、その直後に、チエがやや唐突な感じで下のような発言をする。

「そやけどほんまにロクな男が居らんなぁ。日本国中そおなんやろか。」
「ウチ 当分男とは話せんとこ。」

そして、これらのセリフを発しているチエの背後には、わざわざチエのセリフを強調するように「ロクでもない男」達が描かれている。第12巻を全部読み返した後にあらためてこの場面を思い返してみると、やや浮いたような感じがして、なぜここでこんな描写があるのか不思議に思うのではないだろうか。

次に、これまた唐突に、何の脈絡もなくコケザルが登場する(この場面でのチエは、心の中で(……なんでコケザルが出て来るねん。)とつぶやいている)。それから色々な展開があった後、チエの店で、勘九郎とお好み焼屋が互いに名乗る前述の場面となる。さらに、再度コケザルとマサルが登場し、チエとからむ場面となる。そして、お好み焼屋は、マサルから渡された写真にブレザーの少年が写っているのを見て驚愕する。これで、ブレザーの少年がどうやらお好み焼屋の息子であるらしいことと、彼のフルネームが「百合根カオル」であることとが明らかになる。

さらに次の第8話で、チエはお好み焼屋のためにブレザーの子を探して再び見つけ出す決意をする。色々なことがあった後、第10話「ユ・リ・ネの名前が出て来ないの巻」において、チエとヒラメはついにカオルに再開する。ちなみにこの話でもコケザルがからんでくる。そして、この巻のクライマックスとも言うべき第11話「宝塚のホームにての巻」で、お好み焼屋が息子のカオルと再会する場面にチエとヨシ江も立ち会う。

以上が、第12巻のあらすじである。

前述の通り、この巻の描写をしらみつぶしに見ていくと作者の意図が読めてくる。そもそも、この巻の話が「お好み焼屋とその息子との再会」というだけの意味しか持たないのならば、なぜそこにマサルやコケザルが深くからんでこなければならないのか?そして、チエが唐突に「そやけどほんまにロクな男が居らんなぁ。日本国中そおなんやろか。」などというセリフを吐いた意味は何なのか?それもこれも、実は前述のようなチエの恋物語への伏線であったと考えれば納得がいくのである。さらに言えば、チエの恋物語の伏線はこれよりも前の巻ですでに張られていたようである。第10巻における渉の恋物語、および、第11巻でチエへのラブレター?(実はヨシ江宛のラブレター)が届く場面などがそうだ。

以上、自説の検証ということで述べてきたが、まぁ、私の下手な説明だけでは納得していただけまい。皆様におかれては、ぜひ、ご自身で原作を、特に第12巻をあらためて熟読してみていただきたい。ここまで述べてきた推理が決して単なる妄想でも強引なこじ付けでもないことがお分かりいただけると思う。(ここでいう「熟読」とは、コマの隅々からセリフの一つ一つまでを舐めるように見回し、それぞれの描写がどのような意図で描かれたのかを熟考しながら読むことである。)

(9) 作品における「予定変更」
ここで、私の自説を再掲すると下記の通りである。

「カオルは、チエの恋の相手として創造された。作者は、チエとカオルとの関係に、さらにマサルやコケザルも絡めた恋愛話を大々的に描くつもりだったが、なぜか予定が変更され、カオルは、その後登場することはなかった。」

これまで、上の説の前段については検証してきた。しかし、後段の、なぜ予定が変更され、カオルがその後登場しなかったのか、という点については、本稿ではあえて述べない。何となれば、私にも答が分からないからだ。一応、いくつか仮説は持っているのでそれを述べようかとも思ったが、やはりやめることにする。こういう問題について、証拠もなしに推理だけでものを言うことがどこまで許されるのか、私には分からない。ただ、理由はともかく、原作において「予定変更」がなされたという事実については、これまで述べてきた通り作品中に「状況証拠」がある。そして、まるでさらなる「状況証拠」を示しているかのような感想が、実は堅気屋倶楽部の過去ログに書かれている。発言者の方々には失敬かとは思うが、下に引用させていただく。

「はるき悦巳「じゃりン子チエ」全67巻、読破しました。
67巻というと某亀の2/3も無いんですが、1巻当たりの話数が多いのでかなりのボリューム感でした。
全体を通した感想はと言うと…アニメからのエントリーだった副作用でしょうか、13巻を境に何となくパワーダウンしたままダラダラ来てしまったかなぁ、という感じです。
13巻で百合根がカオル君と縁日で話しているシーンがありましたが、百合根が子供と再会した時点で話を終えれば私にしてみれば完璧でした。この後は面白い話が単発、更にその頻度が段々低くなって言うように感じた私はおかしいんでしょうか?」
(1998年3月23日の鈴原千陽様の発言)
「12巻(引用者註:正しくは「13巻」)の「知恵の輪騒動」あたりから、それまで登場人物のキャラクター自体が持つパワーと初期衝動によって生み出されてきたストーリーがその必然性を失い、「事件のための事件」が生み出されるようになってきたような気がするのです。
この傾向は次第に強まり、それでも20巻くらいまではテツとヨシ江の関係に新たな光が当てられたり、コケザルのキャラクターがより深みを増したりする展開はありましたが、それ以降は「連載を続けるためのエピソード」に終始したような感があります。」
(2001年1月18日の元南民様の発言)

上記のように感じてしまうのは、あながち「アニメの副作用」ばかりでもあるまい。実は、「知恵の輪騒動」あたりから、物語が、「予定変更」により、本来自然に進むべきだった方向とは別の方へと方向転換させられてしまった、ということはないであろうか?無論、感じ方というのは百人百様であるから、上のお二方の感じ方が「絶対に正しい」ということはないが。ちなみに、上のこととは関係ないが、アニメではカオルの話は最初から削られており、カオルは一度も登場していないし名前すら出てこない。やはり「子供が聞いてもちょっともおもろない話」(第13巻第1話)だからであろうか。(こういう点を見ても、やはり原作とアニメとは全く別の作品であると言わざるを得ない。もちろん、どちらもそれぞれ名作であることに間違いはないし、アニメには、それはそれで原作にはない独自の魅力があることもまた事実である。)

(10) チエとカオル(その1)
作者の意図がどうであったにせよ、現実に存在する「じゃりン子チエ」の話の中では、チエの恋物語というのはついに描かれることはなかった。チエの恋の相手に実際になり得た人物は、カオルはおろか誰も居なかったのだ。これは動かない事実だ。それでは、実際に描かれた「じゃりン子チエ」の話の中ではチエとカオルの関係はどうなのか。それを以下で検証する。まず、件の長尾剛氏によれば下記の通りだ。

「チエは一度たりとも、カオルへの特別の感情を示す表情を見せたことがない。これは明らかに「本当に気にしていない」からだろう。」
(「生き方」第65ページ)

これは正しいと私も思う。実際の作品中では、チエは、カオルのことを「お好み焼屋の息子」以上の存在として認識することはついになかったのだ。しかし、それは、作品中でチエとカオルの出会いの機会が少な過ぎたからであって、カオルに人間的魅力がないからだとは言えない。また、上記のことが正しいからと言って、チエがカオルのことを他の男の子とまったく同じようにしか思っていないかというと、それは少し違うようである。以下に私の考察を記す。

(11) チエとカオル(その2)
チエとカオルが対面する場面は作品中でほんの数えるほどしかないのだが、その場面におけるチエの態度は、普段のマサルやタカシやコケザルといった少年に対する「ケンカごし」の態度とは明らかに違うとお思いにならないだろうか。チエが「ケンカごし」にならずに相手できる同年代の男の子といったら、作品中では、カオルの他にはおそらく丸太ぐらいしか居ないだろう。この理由は色々と考えられるだろうが、一つには、カオルが(おそらくは丸太も同じだが)、「他人を平気で傷つけるような無神経さ」や「男という言葉に対する過大な幻想」といったチエが嫌う要素を持っていないからであろう。チエがまず何よりも嫌いな人間(老若男女問わず)のタイプと言えば、他人を平気で傷つけるような無神経な人間である。このことはチエ本人が言っているのでおそらく間違いない。すなわち下記の通りだ。

「メチャメチャ………?誰がそんなことゆうたん。
 そおゆう その…… ヒトにそんなことゆう人間は ウチ 大嫌いや。」
(第6巻第9話「ヒラメの憂ウツの巻」)
「人を傷つけて喜ぶような男はどついた方が早いておバァはんがゆうとった。」
(第11巻第2話「眠れない日の神だのみの巻」)

カオルがそのような無神経さとは最も縁遠い人間であることは間違いあるまい。

(12) チエとカオル(その3)
次に、もう一つの「男という言葉に対する過大な幻想」という点について述べる。

「どらン猫小鉄」で小鉄が言っている通り、少年の頃は誰しも男という言葉に対して過大な幻想を抱きがちである。もちろん、少年がそのような「幻想」を抱くことが一概に悪いことだなどとは決して言えない。むしろ、そのような「幻想」をまったく持たない男の子の方が困り者かも知れない。だが、そういう議論はここでは置く。良いか悪いかは別として、チエがそういう幻想を嫌うことは間違いない。下記の会話などはそのことを最も端的に示しているであろう。

(通りがかりの少年)
「女が男のやることにグチャグチャ口出すんやないわい。」
(チエ)
「女のゆうこと聞いてんと大ケガするど。」
(第29巻第10話「黒シャツパワーの巻」)

そして、マサルやタカシやコケザルといった少年達も、ご多分にもれず、この「男という言葉に対する過大な幻想」を持っている。彼らに対するチエの態度がいつも「ケンカごし」なのは、彼らのそんな「青臭さ」を余裕を持って受け入れられるほどにはチエの人格がまだ成熟していないということだろう。何やら大層な言い方をしたが、上のことは別に彼らとチエとの間だけの問題ではなく、これくらいの年齢の男女にとっては普通のことであるような気もする。だが、カオルの場合は少し違うようである。彼は「女のゆうこと」を素直に聞くことのできる子だ。これは、カオルがチエと同様(あるいはチエ以上に)幼い頃から大人の事情に揉まれて「大人よりも大人らしい」少年に育っているために、男という言葉に対する過大な幻想を持つような「青臭い」段階はすでに卒業しているのか、または、単にそのような幻想は生まれつき持ち合わせていないだけなのか。カオルと彼以外の少年、例えばマサルとの違いは、例えば下の二つの会話を比較することによりお分かりいただけると思う。

(マサル)
「チエ オレについて来い。説明したる。」
(チエ)
「ウチ 行きたない。」
(第6巻第10話「ヒラメ絶唱 いかるが篇の巻」)
(チエ)
「ちょっと一緒に行こ。ウチ この辺くわしいから。」
(カオル)
「うん…。」
(第13巻第12話「ヨシ江はんの一発の巻」)

ためしに上の会話で発言者をマサルとカオルと入れ替えてみると、明らかな違和感が感じられるはずだ。

なお、カオルのような生真面目すぎて毒気のない少年はチエにとっては魅力が感じられないだろう、と思う方がもしかしたらいらっしゃるかも知れない。しかし、それはむしろ逆ではないだろうか。下の会話を読んでみてほしい。

(ヒラメ)
「この前テレビで マジメすぎる人間ほどおもしろない人間はおらんてゆう人居って
 家中シーンとなってしもてん。」
(チエ)
「だ… 誰や そんなおとろしいことゆう奴は!
 そぉゆう奴はいっぺんウチとこで合宿したらええんや!」
(第28巻第8話「ジャリ玉が…ダンプに乗ってやってきたの巻」)

(13) チエとカオル(その4)
上記のことに加え、さらに、作品中でのチエの発言を一つ一つ注意深く見ると、カオルとの関係において重要なことが分かってくる。まずは、下にチエのセリフをいくつか列挙するのでご覧いただきたい。

「ウチは男運が悪いねやろか ロクな男が集まらん。」
(第1巻第1話「チエちゃん登場の巻」)
「ウチ お嫁になんか行かへんもん。ウチ もう世の中の男には絶望してるねん。」
「ホンマにロクな男がおらんわ。」
(第1巻第4話「秘密のデートの巻」)
「そやけどほんまにロクな男が居らんなぁ。日本国中そおなんやろか。」
「ウチ 当分男とは話せんとこ。」
「ウチ もお男にはイヤ気さしてるんや。」
(第12巻第7話「マサルの写真の巻」)

これらのセリフから共通して読み取れることがある。それは、「チエは、生まれてこのかたロクな男に出会ったことがない」ということだ。事実その通りかどうかは別として、少なくともチエ本人がそれに近いことを思っていた、ということである。

ここで、チエにとっての「ロクでもない男」の代表選手は、同年代の男子の中では、言うまでもなくマサルとタカシとコケザルである。身もふたもないが事実だ。チエ本人曰く、彼ら三人は「最悪のメンバー」だそうだ(第26巻第8話)。断っておくが、決して私が彼らのことを「ロクでもない男」と思っているわけではない(本稿を最後までお読みになればご理解いただけると思う)。また、客観的に見て彼らが「ロクでもない男」だということでもない。ただ、チエから見ると彼らはしばしばそのように見える場合がある、ということだ。ちなみに、あの花井拳骨ですら、チエの目にはどちらかといえば「ロクでもない男」として映っているようなふしもあるのだ。彼は「西萩一の人格者」とおそらく大半の登場人物や読者からは思われており、また竹本家にとっては大恩人であるにも関わらず、である。下記のセリフは、いずれも拳骨に対するチエの評価だ。

「オッちゃん昔センセやってたんやろ。
 ほんなら 少女を傷つけるようなことゆうたらあかんのとちゃう。」
(第7巻第2話「父兄運動会(1)の巻」)
「オッちゃん 迫力あるわりに意外とあかんねんなぁ。」
(第11巻第8話「人気者 花井拳骨の巻」)
「ほんまにアホなことばっかり………。」
(第43巻第6話「恐山の呪いの巻」)
「なんや……。オッちゃん テツより不真面目やんか。」
(第53巻第4話「反省は突然体にやって来るの巻」)
「な… なんちゅうこと……。役に立たんオッちゃんやなぁ。
 ここ一番の最後の切り札がいきなり疫病神みたいなマネ」
(第54巻第3話「お花見がこわいの巻」)

これらと同様のセリフは、他にもまだまだある。ただし、これまた誤解のないよう付け加えておくが、チエは、上記のように思いながらも、拳骨の人格を全体としてはやはり尊敬し信頼しているのだ。そのことを示すチエのセリフは多数あるが、例えば下記のものなどが一番分かりやすいだろう。

「花井のオッちゃんがそぉゆうたんやから。オッちゃん 今まで まちごうたことゆうたことある?
 とにかく オッちゃんのゆうたとおりせんと なんかまちがいあったら ウチ責任持たへんで。」
(第27巻第5話「逆襲の間接はずしの巻」)

(14) チエとカオル(その5)
話がそれかけたが、とにかくチエは「自分は生まれてこの方ロクな男に出会ったことがない。」と(あるいは、それに近いことを)思っていたのである。しかし、それはカオルと出会うまでの話だ。前節で「ロクな男が…」というようなチエのセリフを列挙したが、これらはいずれもチエがカオルと正式に知り合う前のセリフだということにお気付きになったであろうか。チエがカオルと初めて会ったとき、彼はチエにとってただの見知らぬ少年であった。しかし、第12巻第7話「マサルの写真の巻」の話の後、チエはカオルの素性を知り、彼と再会している。そして、その後は、「世の中にはロクな男が居らん」という類のセリフがチエの口から語られる場面は作品中で一度も描かれていないのである。原作を当たって確かめてみるといい。この現象には、どういう意味があるか。

「ただの偶然であり、何の意味もない」という見方もあろう。しかし、それよりは「カオルと正式に出会い、彼の素性や人間性を知ったために、チエの心境に若干の変化が生じた。」と解釈する方が断然面白い。「面白い」だけではなく、そう見る方が客観的な正しさという意味からも妥当ではあるまいか。なぜなら、あのカオルとの出会いを通じて、チエが彼に対し「ロクでもない男」という心証を抱いたとはちょっと考えにくいからだ。

チエも、カオルと初めて対面したときは「子供のクセにブレザー着てる子にロクなもん…」(第12巻第5話)との先入観から、彼に対して良い印象は持っていなかったに違いない。しかし、その後カオルと正式に出会い、彼の人物を知ってからは、件の長尾氏言うところの「チエのまわりの男子の誰もがかなわないほどの気品」はそれとなく感じていただろう。少なくとも、ブレザーを着ているから云々というような先入観が誤りであることははっきり分かったはずだ。(このあたりは具体的な根拠を挙げて説明することは難しいのだが、やはり第12巻をあらためて熟読していただければ感じてもらえるのではないかと思う。)

つまり、チエにとっては(チエ本人はそれと自覚してはいまいが)、カオルは「生まれて初めてその人柄に敬意を抱いた少年」なのである。やはり、彼は、チエにとって「初恋の人」なのかも知れない。まあ、「初恋の人」とまで言うのは飛躍し過ぎだとしても、カオルとの出会いがチエの男性観をほんの少し変化させたことは確かである。それは、チエ自身も、周囲の者も、そして読者もほとんど気が付かないくらいのごくわずかな変化ではあるが。ほんの一瞬すれ違っただけの出逢いでも、カオルの存在は、チエの意識の底にしっかりと残っていたのだ。

(15) チエの結婚相手―テツとの関係(その1)
ここで、話は「チエの結婚相手」とテツとの関係のことに移る。「じゃりン子チエの秘密(関西じゃりン子チエ研究会著、データハウス)」には下のように書かれている。

「片想いのマサルが将来、チエとつき合ったとしても、テツと暮らす根性がないので、チエとは絶対に結婚できないのである。
 チエにとっては可哀相なことだが家出をしないかぎり女の幸せは来ないのである。」
(同書第86ページ)

マサルが云々はしばらく置くが、何はともあれ、チエと結婚しようとする男性にとってテツの存在は無視できないことは間違いあるまい。それでは、そもそもテツは、娘の結婚相手、あるいは交際相手についてどのように思っているのだろうか。この問に対する答も、やはり作中のテツのセリフを見ることによって分かる。下に三つほど列挙する。

「チエ。あんなガキ(註:コケザル)とは付き合うな。不良になってしまうど。」
(第7巻第12話「鑑別所同窓会の巻」)
「待ってるのはええけど やたらにチエと話するなよ。おまえ(註:コケザル)不良やからな。」
(第12巻第7話「マサルの写真の巻」)
「しばいたろか このガキ!
 なんでチエがおまえ(註:コケザル)みたいな不良と結婚せないかんのじゃ!
 ワシ おまえみたいな奴見たらムカムカ来るんじゃ。結婚したかったら就職せんかい!」
(第18巻第3話「みんながムカつく手紙の巻」)

これらのセリフ、特に三番目のセリフは、「働かんと食えん奴は根性なしや。」(第14巻第10話)というテツのポリシーとははっきり矛盾する。だが、どうやら、テツにとっては娘の結婚相手だけは他の男とは別扱いなのだ、と見る方が良い。そのことをさらに裏付けるテツのセリフがある。

「チエ。ホルモンなんか焼くひまあったらピアノ習いに行け。
 女は ピアノとか日本舞踊習てると ええとこ嫁ハンに行けるのや。
 あのオバはんは それで 金持つかまえて ああなれたんや。」
(第9巻第12話「レディー・幕ごはんの夢(3)の巻」)

つまりテツは、自分自身不良でろくでなしで妻にも娘にも苦労ばかりかけているくせに(いや、「だからこそ」と言うべきか?)、娘には、いわゆる「ちゃんとした」男と結婚して幸せになってほしい、と願っているのだ。これは上記の通り大いなる矛盾だが、父親の心理としては極めて自然なことだろう。もちろん、テツの発言の内容自体には色々と文句をつけたくなる方もいらっしゃるに違いない。だが、彼なりに娘を思う気持ちから出た言葉であることには間違いあるまい。ということは、テツから見てもカオルは娘の結婚相手として申し分ないのではあるまいか。彼はどう見ても不良ではないし、また、テツの言うところの「金持」である。

ちょっと横道にそれて、またも作者の意図を推理してみる。これはまったく私の勝手な想像に過ぎないのだが、もしかすると、作者自身、チエのことを自分の娘のように思い、その理想的な相手として描いたのが「百合根カオル」なのではないだろうか。そして、だから彼は「お好み焼屋の息子」なのだろう。何となれば、お好み焼屋のオヤジは竹本家にとって家族同様の存在であることは、じゃりン子チエの読者にとっては周知の事実だ。テツとオヤジの関係において然り、小鉄とジュニアの関係において然りである。ある登場人物などは、オヤジのことを、はっきり「チエのファミリー」と評している(第24巻第8話)。

(16) チエの結婚相手―テツとの関係(その2)
作者の意図は置いておいて、テツの気持ちについてさらに述べる。

テツが娘の結婚相手について上記のように思っているとすれば、カオル以外の少年は、テツにとっては娘の結婚相手としてどうなのだろうか。それについて、ごく簡単にではあるが以下で考えてみる。なお、この節では、本人同士(チエとその相手)の気持ちは無視してテツとの関係だけを論じる。

まず、コケザルについては上記のテツのセリフの通りである。これ以上は何も言う気がしない。次に、マサルはどうだろうか。彼も、いわゆる不良でなく、しかも「金持」であると言う点ではカオルと同様に申し分ないが、テツに対する態度が悪すぎるのが大きな問題だろう。彼はテツのことを、面と向ってでも平気で「テツ」と呼び捨てにするが、コケザルでさえそういうことは滅多にしないのである。これまた第12巻をよく読んでいただければ一番分かりやすいはずだ。(しかし、である。………と、いうことは「マサルは根性がある」と言えるのではあるまいか?!) タカシはどうか。マサルと似たりよったりのような感じがしないでもないが、やはり、金持でない分マサルよりも不利か? そして、丸太はどうか。作中に登場する少年でテツに一番可愛がられているのが彼であることはほぼ間違いあるまい。なにしろ、テツをして「学校でイジメられてるんやったら ワシ(註:ゲンコツを握りしめながら)一秒で解決したるど…。」と言わしめたこともある(第63巻第2話)。テツをここまで味方につけている少年は丸太の他には居まい。もっとも丸太自身には「味方につけている」というような意図はまったくないのだが………。丸太にしろ、妹のヒラメにしろ、どうもこういう「素直で良い子」な人間はテツから可愛がられる傾向にあるらしい。ちなみに、花井渉などは、このことを熟知していて上手にテツと付き合っている(例えば、第1巻第11話、第6巻第7話等をご参照いただきたい)。無論、テツが丸太を可愛がっているからといって、娘の結婚相手として認めるかどうかは別問題であることは言うまでもない。ただ、丸太はカオルやマサルに輪をかけて「不良」からは縁遠そうであるから、少なくともその観点からは立派に合格だろう。

(17) 花井渉について
渉の名前が出たついでに、彼についてちょっと触れておこう。彼もチエの男性観を語る上で無視できない人物だからだ。渉という男は、テツに言わせると「皮靴で鼻蹴られてもスンマセンゆうてあやまりそうな世界一の根性なし」である(第38巻第9話)。渉自身も、教え子のチエを前にして「僕は弱虫だから。」と全面的に認めてしまっている(第1巻第11話)。そんな渉だが、チエにとっては、ある意味では渉の父親の拳骨などよりよほど頼りがいのある人物であるようだ。いわゆる相撲大会篇のときにチエが言ったところによれば、下記の通りである。

「ウチ 運動は好きやけど 相撲だけはイヤやねん。今日 センセにゆうて断ってもらお。
 センセのお父はんにゆうてもあかんからな。あのオッちゃん ウチのこと女と思てないから。」
(第3巻第6話「相撲はやりたくないけれどの巻」)

つまり、渉は拳骨と違って自分のことを女性として尊重してくれるから、その意味で信頼が置ける、というわけだ。上記の話では、チエは、結局諸般の事情から渉への直訴は断念せざるを得なかったのだが、ともあれこんなところにもチエの男性観の一端を垣間見ることができる。

(18) チエの身近な男性達(その1)
しかし、渉に限らず、チエのまわりの男性達は、基本的にはみんな優しくて気のいい奴ばかりだ。全員について詳しく述べているときりがないので、テツとコケザルとマサルの三人について、ごく簡単ではあるが以下で述べる。これは、前述の、彼らが決して「ロクでもない男」ではないということの説明でもある。

まず、テツであるが、多くの読者が指摘している通り、一見ガサツに見えて実は繊細なところがある。チエも「テツ あれでデリケートなとこがあるんやで。」と評しており(第1巻第12話)、そして「ウチもテツ嫌いやないもんな。」と心で思っている(第3巻第12話)。テツの「デリカシー」を示すエピソードは色々あるだろうが、マラソン大会でチエの足が靴ずれしないように靴のかかとに石鹸を塗ってやる話(第1巻第10話)などはその最たるものではないだろうか。「ワシ チエのかわいい足傷つけたないねん。」とはなんとも優しいパパである。

ヨシ江がテツに惚れてしまった原因も、実はそのへんにあるのではないか、とすら思える。その証拠???が、下の会話だ。

(チエ)
「お父はん お母はんと結婚する前 ボク てゆうてたん?」
(ヨシ江)
「さあ どおやろ。ゆうてたかな。」
(チエ)
「きもち悪る~~~。 お母はん 胸悪なったやろ。」
(ヨシ江)
「そおでもなかったよ。それより お母はん それがなんかおかしいてね…………。」
(第6巻第1話「古いものには思い出がの巻」)

一方、コケザルのチエに対する態度はデリカシーとは程遠い。例えば、チエに面と向って下のように言ったこともある。

「よー チエ。久しぶりやな おい。まだホルモン焼いとるんか。
 女は顔だけやから気ィつけよ。おまえ ホルモンの煙でだいぶ顔茶色なっとるど。」
(第12巻第7話「マサルの写真の巻」)

このように言われて喜ぶ女性が居たらお目にかかりたい。しかし、コケザルの名誉のために言うが、彼も本当は優しい男なのだ。下の会話を読んでいただきたい。

(コケザル)
「くそっ ワシ 女(註:ここでは母親のこと)に泣かれるの好かん。」
(ミツル)
「それでどうや?和歌山に行くことにしたか。」
(コケザル)
「………かわいそうやからな。また泣かれるのかなわん。」
(第3巻第4話「それぞれに生き方はある…の巻」)

こういう自分の気持ちを、コケザルは、チエに対してはどうも素直に出すことができないようだ。不器用な男である。もし、コケザルにテツのようなデリカシーがあれば、チエとコケザルの関係も少しは違っていたであろうに。(ちなみに、このことからも分かる通り、テツとコケザルとは、似た点もあるが違う点もたくさんある。二人は別の人間なのだから当然だ。「不良」という理由だけでテツとコケザルの全てを頭ごなしに同一視しようとするのは、人間をラベルのみで区別する暴挙である。)

(19) チエの身近な男性達(その2)
そしてマサルである。

マサルが優しい子だという証拠はいくつも見つけられるが、例えば、彼が映画「カリンとナット」を見たとき、一緒に見ていた母親の証言によれば下記の通りである。

「でも 見てよかった。いい映画ですわよ。感動的。
 もう マサルなんて 気のやさしい子だから わんわん泣いちゃって。」
(第10巻第1話「ツイてる男とツイてないみんなの巻」)

このときたまたま居合わせたチエは、心の中で「ウソ泣きちゃうか。」とつぶやいているのだが、もちろんウソ泣きなどでないことは、賢明な読者ならお分かりのはずだ。どうもチエは「マサルに「優しさ」などという感情はない」と思っていたのではないだろうか。あれだけ毎日イジメられていれば当然かも知れないが。ずっと後の第56巻第2話で、チエが「マサルには まず 愛を見つけてほしいわ。」という発言をしたことがある。この言葉の意味は難解ではあるが、「マサルのような陰険な男は「愛」などという感情は知らないから、まずそういう感情を身に付けてほしい。」という意味に取るのがもっとも自然でかつ素直な解釈であるように私には思える。このときになってもまだチエはマサルを理解することができずにいたということだろう。しかし、この第56巻の話の中で、チエは、マサルがタヌキを飼っていて心底可愛がっていたこと、タヌキを元の持ち主に返すとき別れを悲しんで涙を流したこと、など色々なことを知ることになる。ここに至って、チエはようやくマサルの優しさを少し理解することになるのだ。

ちなみに、例の「生き方」という本には下記のように書かれている。

「『じゃりン子チエ』の物語は終わったが、もしこれが続くのであれば、このふたりの関係は、次は「チエがマサルを理解する」ためのドラマとして、あるいは進んでゆくのかもしれない。」
(「生き方」第168ページ)

たしかにそうかも知れない、と私も思う。

(20) 終わりに
そろそろ、この「百合根カオル論」を締めくくることにする。最後は、チエやカオルや他の子達の将来について私情むき出しの意見を述べて終わりたい。(ちなみに、まだ起こっていない事について述べるのであるから、客観的な「事実」も「真実」も何もない。)

「じゃりン子チエ」の話はすでに完結したから、今後続編が描かれるというようなことは絶対にない。しかし、実際にはあり得ないが続編が描かれたと仮定して、チエの成長、恋愛、さらには結婚というように話が進んでいくとしたら、どういう話になるのであろうか。無論、未来を100%確実に予測することなど誰にもできないから、チエが最終的にカオルをパートナーとして選ぶかどうかはまだ分からない。他の作中登場人物か、または作中には登場しない誰かを選択する可能性があり得ないとは決して言えない。だが、チエが最終的に誰を選ぶにせよ、続編では、カオルの再登場およびチエとの再会がまず描かれるべきだろう。それが描かれたときこそ、「じゃりン子チエ」では描かれなかったチエの初恋の物語が始まるときなのだ。カオルを無視してチエの目の前から追いやったままに終始するような話は、たとえ世間が認めようと原作者が認めようと私は読みたくない。それでは誰も本当に幸せにはなれないと思う。

チエもカオルも本当に良いところのある子だし、幼い頃から苦労ばかりしてきたから、その分将来は幸せになって欲しいと思うのである。そして、他の子達にも、どのような形であれそれぞれに幸せになって欲しい。

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LastUpdate 2003/12/1
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